面接質問対応を考えてみた

自分を動物、食べ物に例えると?

動物なら犬。食べ物ならたまご。

犬。興味のあるものにまっしぐらで、懐いた人への忠誠心や共感力がある。興味のないことは見向きもしない。

 

たまご。個体として食べ方のバリエーション豊富で、他の食材と合わせると協調しあい、無限の力を発揮する。

 

 

周りからは何て言われる?

八方美人。守りたい人のことをそれで守れ、自分が好きでやっていることなら問題ないと思っている。

 

気体の分子。どこにいくかわからないが、常に動いてる。

 

絵本。

独創的なページが開くたび現れる。毎回新しい発見がある。

 

他に…なにかあったら教えてほしい。

 

 

 

今現在の社会の課題は?

 

できない事がある人は出来るようになるようにならなければならない、欠点がある人や団体に馴染めない人は働けない、など、許容範囲が狭いように感じる。

また、個性の受け入れかたがまだわかっていない人が多いと感じる。

 

 

 

今までの自分はどんなだった?

私はそつなくこなせるタイプで、ある程度の力を入れれば大抵のやりたいことは出来るようになった。人のことが好きで、周りを良くみていたため、お手本を見つけることも、助けを求めることもできた。

 

だからこそ、思うようにいかない人は努力が足りない人だとおもったり、できない気持ちが分からなかったりしていた。

 

頑張ってもできない人がいるということや、力をどこに入れれば良いかわからない人が悩んでいることを知って、そのような人の手助けになりたいと思うようになった。

 

自分を受け入れられたい

4人の先輩に履歴書の添削をお願いした。

 

一人一人違うところにちがう観点から

FBを入れてくださった。どの先輩からもすごく有難い御言葉をいただけて、自分には足りないものを痛感し、助けてくれる先輩がいることに感動した。

 

 

その中の一人に、

私の履歴書」を「履歴書」として評価した先輩がいた。

その評価、改善案はもう、私のモノではなくなっていた。

 

頭を下げない私の頭を上から押さえつけられるような心地がした。

就活とは頭をいかに下げるかだと考えている人にすれば当然のことだと思う。

でも、涙が出るほど悔しくて苦しかった。

 

例えるなら、私は、付き合ってほしい人に対して「付き合ってほしい」と手を差し出すことはあっても、頭は下げない。

でもその人は恋愛のアドバイスとして、付き合うためなら頭を下げろと言っているような感じだった。

 

 

頭を下げて会社員にさせてもらうくらいなら、頭を下げずに割りのいいアルバイトで食いつないでいきたいほどだ。

 

ただ、礼はする。それほど非常識ではない。

土下座と礼は違う。

 

自分でも、添削をお願いしておいて批判とは先輩に対してとんでもなく失礼だとおもう。

でもその先輩は私を見ていない、受け入れていないように感じた。

 

 

 

思い返せば今まで、本物の自分を受け入れてくれた人としか深く関わってこなかった。大切にしてこなかった。

 

本物の私というのは、いつでも自分が正しいと思っていて、正義感が強くて、与えることが好きで頑張ることが好きで、誉められるのがすごく好きで、夢見がちで、考えている自分が好きで、難しい単語は嫌いで、でも難しいことを考えることは好きで、順応性を持ってはいるが、順応することを酷く嫌っている。

 

大切だと思える人は皆、こんな面倒な私のことを「そんなところも良い」と受け入れてくれた。

多くの人に受け入れられなかったことから自分のコンプレックスになって、めんどくさい女と自分の価値観に蓋をし、ネガティブになってしまった。

本当の自分を受け入れられないから、受け入れてもらえる形になりきることが上手くなる。

 

長期間お付き合いしてた人や卒業しても会いたいと思える人は、タイプも何もかも違うように見えていたけど、

どの人も、私の価値観に賛同してくれた。心から思ってくれてるかはわからないが、きっと、どこかしらは良いと思う部分があり、そこを素直に肯定してくれた。

 

見た目でも、仕草や行動でも、優しさでもなく、私の頭のナカを誉めてくれた。

 

言動は、振る舞おうとすればどうにでもできるから、変えられないものを褒められることのほうが嬉しい。

 

 

 

 

こんな性格だからこそ、今回、

変えられないものや、言いたいことを変えるのではなく、

変えられることを、より相手に受け取りやすい形に収めるように、アドバイスしてくれた先輩方にすごく救われた。

 

私も、そんな素敵な先輩になりたいと思うし、自分自身も応援の力を活かして絶対に自分の思い描く理想をつかみたいとおもう。

 

 

 

 

世界を変えたいが具体的になってきた

お母さんと働くことについて話した。

 

話していく上で自分の価値観で気付いたことがある。

私は大きな個性も小さな個性も同じ個性として捉えることができる世界を作りたい。

 

頑張っても平均的な行動ができない人や、人と仲良くすることがあまり好きではない人、日常生活の障害となるようなものを抱えている人でも、生きにくいと感じている人でも、要領よくこなせる人でも、手が人より大きい人でも、甘いものが好きな人でも、好きなものが特にない人でも、好きな音楽を聴くと踊りたくなる人でも、「成長」や「常識」などの言葉に違和感をもつ人でも、

 

すべての人が同じ「1つの個性」として同じように捉えられる世界を作りたい。

 

難しいことでも、無理なことではないと思う。

 

私は優劣が好きではない。

自分が優れていると思っているけど、相手が劣っているとは思っていない。

どんな人であっても劣ってる人なんていないと思う。子供であっても、どんな人を傷つける人であっても、劣っている人はいないとおもう。

 

弱者と言われるような現段階では生活を十分にできていない人が優遇されてほしいとは思わないが、私と同じような生活が遅れるようになってほしいし、チャンスは全員平等に訪れるべきだとおもう。

 

私の志望する会社なら、出来るとおもっているし、この会社で出来ないなら自分で会社を立ち上げてでも常識と言われる言葉が蔓延している世界を変えていきたいと思っている。

 

研修やe-ラーニング、その他さまざまなコンテンツなどで意識や会社における一人ひとりの価値観を変えることでそのような自分の望む世界を作れると思う。

 

私は与えることによって与えられるし、救うことによって救われる。Wiennersの玉屋さんだって私と似た価値観を持っていて、世の中には何人かはきっと同じようにおもっている人がいると確証できる。

 

私たちが繋がって広がっていけば絶対に

可能だと信じている。

 

 

成長という言葉がキライだ

成長とはどのような状態を言うのか。

 

成長させるという言葉をよく耳にする。

部長が部員の成長を願ったり、先生が生徒の成長を願ったり、先輩が後輩の、社長が社員の、

 

その成長とは誰かの都合のいい型にはまるかどうかで決まっていくことを成長と呼んでいるのではないか。

 

自分の都合がよくなったからその人がそう合わせてくれたから成長したと呼ぶことは私にとって成長と呼ばない。

 

そして私は他人に成長したと評価できるほど自分は成長済みだと思っていない。私は私の価値観のなかで良いと思った道へもがき苦しみながら進んでいる。ただそれだけだ。生きやすい性格に順応してしまった部分もあるが、それが成長という言葉で評価されるならそんな成長はこっちから願い下げである。

 

私は個別塾で「先生」と呼ばれるアルバイトをしている。私は点の取り方や点を取るための考え方を諭すことをしているが、「成長」させているわけではない。ただ、できるようになったら彼らが少し生きやすくなると私の価値観で考えていて、彼らもその価値観に賛同してくれているから、私の価値観を披露している。それだけだ。

 

なんでもできるようになったらいい

という訳でもないと思う。

できないことに救われることだってあるし、できなくてよかったことだってあると思う。

 

怒る人が怒らなくなることも、怒れない人が怒るようになることも、やっていることは逆なのに良い変化として捉えられる。

怒る人にとっては、怒るという技術を手に入れてるのに批判されて、怒れない人にとっては怒るという技術を手放しているのに批判される。そんな何が誰の決めた良いことかわからないルールのようなものに振り回されすぎのように思う。

 

私は身長以外は成長しない。

私はただ、私の思った道へ、私がなりたい自分のため、助けたい誰かを救うために、必要なものを得て、不必要なものを捨てていく。

 

それだけだ。悪いか。

悪かったとしたらこの考えを説き伏せるほどの理論で私に証明してほしい。

 

地獄のなかで動く

企業説明会に参加して

企業側は良い面や就活生にとって「楽」に働ける、都合の良い面や理想的な面をアピールする。

 

怒らないだの優しい人が多いだの、緩そうなイメージを植え付ける。

その様子はまるで、吹奏楽部の勧誘みたいだ。

過剰なイメージ付与は本当の良さがうもれてしまう。もしこの説明会しか知る機会がなかったらきっとその会社を希望しないとおもう。

 

安定も大切だけど、安定だけで決めたくない。

 

 

 

 

 

就活をはじめて

企業はやる気のある目のキラキラした人を採用したがる。

 

就活を始める前までは、働くことに希望を持ち、キラキラしていた人でも、

やりたくないことや、面倒なこと、不採用通知、孤独感、焦りでどんどん目の輝きを失っていく。

面接を受ければ受けるほど、自分がどんな目標を持ってたのか、どうしてどんなところに入りたいのかを忘れていく。失っていく。

 

輝きを失った自分で面接を受けても思うような結果にならず、精神が不安定になると他人の声も届かなくなり、負の循環に陥っていく。

今まで他人と比べず生きてきたとしても、面接などで他人の人生を知り比べられ、自分は無力だと実感させられる。

上には上がいるのに全然下はいなくて、唯一無二と思ってた自分がありきたりな平凡な人間だと思い知らされる。

 

そんな環境を生き抜くことができるのだろうか。

 

 

 

似てる人と出会って

通話アプリで自分の性格と似ている人に出会った。

出会い系よりはフラットな不特定多数と話せるアプリでたまたま入ったルームの人と仲良くなった。

自分が二人いたらいいのにと思った時期があったため、価値観や相手との関わりかたが似ている彼はとても理想的だった。

ちがう部分や少しモヤっとする部分もあるけど、今までより自分のコンプレックスやネガティブと思っていること、自分が誇りをもってることを肯定されているのは嬉しい。

 

就活で弱ったタイミングで現れた久しぶりのクスリ。求めるときに現れるものなのだと思う。

消耗してしまうものだとしても、ためらわずに消耗していきたい。

 

明けなかった朝と妄想の夜

昨日の夜、ずっと放置されていた人と縁を切った。

まあまあ好きだっただけに切なさが募った。

放置されてるだけあって今回も返信が遅かった。でも優しくて、でもあっけなく別れを受け入れられた。

好きで切なくて悔しくて心臓がバクバクしてなかなか眠りにつけなかった。

寝たのか寝れてないのかわからないまま朝がきて、起きてからもずっとその人のことが頭を占領した。チャットモンチーの曲(特にハナノユメ)がやけに胸に刺さった。

 

母に、昨日私が買った新しいお高めな柔軟剤で、お気に入りの寝巻きを洗ってもらった。

私の推している芸能人(?)アーティスト(?)の匂いがした。

推しに会ったことはない。もちろん匂いを嗅いだこともない。

でも推しの優しくてしっかりした性格や話し方、見た目、全てが、この柔軟剤の匂いっぽかった。

袖を通し体に柔らかな推しを纏って布団に入ると、推しに包まれて寝ているようだった。

少なくとも一人ではなかった。そこにあったのは誰かの匂いだった。

 

さっきまで配信で話していた推しと寝ることを想像するのは容易だった。

髪を撫でられ頬に大きなリップ音でキスを落としていたずらに微笑む。

おやすみと微笑む推しに自然と私の表情も緩んでくる。

今日は夜が終わり朝を迎えられそうだ。

 

 

放浪の末、隠しコマンドを発見した

なぜだろう。

駄目になってしまったのは。

嫌いになってしまったのは。

充たされなくなってしまったのは。

 

本物ではないから?

過去の過ちのツケ?

私のせい?

あなたのせい?

 

 

 

中学3年の夏、それは空が一番近くに感じた季節だった。手の届かない「大人」「表舞台に立つ人」「男性」というものを至近距離に感じた。神聖なものが本当は神聖ではないと悟らされた時期だった。

 

それからネジが外れ、私は男性には心がないのだと思い込むようになった。私のことなんて穴としか見えてないのだと。手に届けば誰でもいい、私は身体しかない存在なのだと。

実際に心が存在しない人はたくさんいた。普段は心を持っていても、私に対しては心を持たない人も見受けられた。絶望してもう男性と関わらないと心に誓った時期もあった。

 

しかし、希望が捨てきれなかった私は、名前のない「コラム」と言う名の他人から「心を持つ男性もいる」ということを聞いて、片っ端から男性を試そうとした時期もあった。

期待して、試しては絶望し、また期待して、試しては絶望を繰り返した。

 

 

そのうち、私は期待を裏切らなさそうな、優しそうな人を好くようになった。優しそうな人たちは、私と深く関わろうとしなかったり、保守的だったり、価値観が合わなかったりして、なかなか長くは続かなかった。

 

大学1年で出来た彼氏は唯一「合う」という感覚を覚えた。その頃になぜ充たされると感じれたのかを言語化しておけばよかった。許せたのはなぜか。許されていると感じれたのはなぜか。

彼は自分勝手だったはずなのにちっとも自分勝手に感じなかった。

きっと、彼は本当に、「私によって喜ばせられてる彼の姿を見て喜ぶ私の姿」に喜びを感じていたのだろうと思う。

それが私の唯一の喜びで、彼にあって他の人にはないものだと思う。

 

私に喜ばせられる人も私の喜ぶ姿を喜んでくれる人はいた。でも、自分の喜ぶ姿に喜ぶ私のことを喜んでくれる人はいなかった。

相手が喜ぶ。私が喜ぶ。そこに繋がりはなかった。お互いが同時に喜ぶことを目標付けられることもあった。

しかし、それは違かったのだとおもう。

私の充実には時差があり、プロセスやコンボによって発動される必殺技のようなものだったのだ。

AボタンでもBボタンでも発動される訳がなかったのはこのせいだったのだ。

 

私の人生を順を追って整理したブログを書きながら発見した隠しコマンド。

 

コマンドを押してくれる相手はいるのだろうか。

 

これはもう私だけの話ではない上に、相手が努力して解決できる話でもない。それこそ、「合う」相手を見つけるしかない。

 

でも、コマンドが分かっていれば探しようがある。それだけでも大きな一歩になった。

今回の話の元になった経験も、このブログも、私に良い刺激を与えてくれたとおもう。