罪人より重い罪

アルバイトから帰る電車。

遅延かなんかでいつもよりもすし詰め状態だった。

三河島駅につき、ドアが開こうというその時、車内がどよめいた。

一人、また一人と恐る恐る車内から出ていく。そこでわたしは女性が倒れているのを認識した。

爆音のイヤホンからの音楽を下げ、煩わしいコードと格闘しながら女性を見ると、男性に抱えられて外に出されていた。

 

私は、女性に声をかけ、水がいるかと聞くといると言うのですぐに自販機で水を買い手渡した。

体勢が不安定だったため、回復体位を促した。

 

それしかできなかった。そのあと、「あぁ、私なにしよう。」役割を見つけることができず、とりあえず「もう一人で大丈夫?」と声をかけ、うなずくのを見て電車に戻ってしまった。

 

戻ってから数十秒、電車は出発しなかった。

寝転んでる彼女の姿をみて、自分の居場所のなさを優先して電車に戻ってしまった自分への罪悪感がふつふつと沸いてきた。

 

少しでも手を貸してしまった、その助ける当事者になった人は、自分が「気持ちいい」と感じるほどに、助けると決めたゴールまで助け抜かないと、助けずに見ていた傍観者よりも罪悪感が大きく募ることがわかった。

 

人生において、「自分の目の前で誰かが援助を要するほど体調が悪くなる」場面は、そう多くはない。

しかし、(中時間かけて東京に頻繁に進出する埼玉県民だからだろうか)私は、高校1年生~大学4年生の7年間で、3~4回、そのような人に遭遇したことがある。

 

今までも、助けることができたり、できなかったりして、気持ちいい思いや不甲斐ない思いを味わってきた。不甲斐ない時のことは、今でも覚えている。

人生で後悔をしたことがない私が、唯一後悔したことを挙げるとするなら、「大変な思いをしている人に対して、何もしなかったこと」だ。

 

人に罵倒されるよりも、何をされるよりも、心にモヤモヤと色濃く残っているものは、勇気が出なかった後悔。

 

こんな嫌な思いを何年も何年も引きずるくらいなら、少しもどかしくても彼女のそばに居てあげればよかった。

 

罪を犯したのに、その場から逃げ去って、ずっと警察から逃げているような、そんな犯罪者のようなハラハラとモヤモヤしたとても不快な気持ちである。

炭や灰は燃えてもなくなることはない

自分の役割ではない事象が起こったときに、消化不足を起こすことがわかった。

 

その場ではそれらしくそれなりに、いや、それ以上に振る舞うことができる。

車や一人になったときなど、自分のテリトリーに入ったときに、くつくつと煮えてくる。

 

そういう時、今まで消化できなかったことが思い出される。1年前の善意が搾取されたこととか、4年前の理不尽に起こられたこととか。

 

女性は過去のことを掘り返して怒るなどと巷の男女の違いなどをまとめたサイトには書いてあり、こうはならないようにしようと心がけていたが、やはり女性の私には無理なのかもしれない。

 

今回の事の発端は土日に起こった2つの事象の連鎖による。

土曜は、友人とドライブをしてなんとなく友人の態度が気に食わなかった。

日曜は、お父さんが「母の日だから料理をプレゼントしよう」と言い出したにもかかわらず私に2000円を渡すだけだったのがモヤモヤした。

 

一つ一つはくだらない。でも、燃えきれないこれらは炎が消えたとしても炭や灰となり私の中に蓄積し、次に燃えた何かと一緒にまた燃え、いつまでも消えることなく溜まっていくのだろう。

 

きっと本人の謝罪やなんかでおさまるものではもうない。私の陣地に置かれてしまったモノは誰かがどうにかできるものではない。

 

ストレスは必要なものではあるけど、私はやっぱり笑顔で生きていきたい。

 

炎を灰にする作業だけに今は専念して、次の炎が起こらないように祈るだけだ。

 

書くことがないけどそれは良いことではない

最近、人との関わりが減って、作業も環境も新しいことが起こらないため、文章を書くタイミングがない。

 

細かいことは多少あるけど、140字もあればまとまってしまう。

 

このブログは、喜怒哀楽、恥、考、何かしらが高ぶったときに保存ツールとして使っている。

 

私は無が嫌いだ。恥や、痛み、つらみ、悲しみも嫌いだが、それらは笑えば面白さになる。

無はどこまでも無。0は何をかけても0だから嫌いだ。

無になってしまうと、ちょっとやそっとのことじゃ精神が復活することができない。

雷に打たれて電気ショックで復活しようにも、室内から出ないから雷にも打たれない。

 

引きずり出してくれる人を待っているが、友人が多くはないし、そんなお人好しで私を好いてくれる人もいないから、そんな人は待っていても現れない。

 

音楽を爆音で聞いて心臓マッサージをしてみても、あばらが折れそうになるだけで心臓がなかなか動き出さない。

 

ゼロから一人で何かを生み出せる人を純粋に尊敬する。そして、できない自分を軽蔑する。

 

 

どん底があるとするなら此処ではない。しかし、この環境はとても居心地が悪い。

 

このタイミングで強気な姿勢

バイト先の人から、明日の面接の激励をもらった。

 

受かっても、落とされても良かったと思う

とか、

ありのままで拾ってもらえるところを探した

とか、

途中で嫌になったらズームを切れば良い

とか、

 

とにかく強気な言葉をたくさんもらった。

忘れてた強気が戻ってきて

急に気が大きくなった。

 

私のありのままで、働けそうなところに

拾われればそれでいい。

全部に受かるためにいいこになる必要はない。

働きたいスタイル、信念に合ったところに拾われよう。

 

 

だから、小手先の準備はしない。

いや、でも怖いからちょっとだけする…(小声)

 

面接質問対応を考えてみた

自分を動物、食べ物に例えると?

動物なら犬。食べ物ならたまご。

犬。興味のあるものにまっしぐらで、懐いた人への忠誠心や共感力がある。興味のないことは見向きもしない。

 

たまご。個体として食べ方のバリエーション豊富で、他の食材と合わせると協調しあい、無限の力を発揮する。

 

 

周りからは何て言われる?

八方美人。守りたい人のことをそれで守れ、自分が好きでやっていることなら問題ないと思っている。

 

気体の分子。どこにいくかわからないが、常に動いてる。

 

絵本。

独創的なページが開くたび現れる。毎回新しい発見がある。

 

他に…なにかあったら教えてほしい。

 

 

 

今現在の社会の課題は?

 

できない事がある人は出来るようになるようにならなければならない、欠点がある人や団体に馴染めない人は働けない、など、許容範囲が狭いように感じる。

また、個性の受け入れかたがまだわかっていない人が多いと感じる。

 

 

 

今までの自分はどんなだった?

私はそつなくこなせるタイプで、ある程度の力を入れれば大抵のやりたいことは出来るようになった。人のことが好きで、周りを良くみていたため、お手本を見つけることも、助けを求めることもできた。

 

だからこそ、思うようにいかない人は努力が足りない人だとおもったり、できない気持ちが分からなかったりしていた。

 

頑張ってもできない人がいるということや、力をどこに入れれば良いかわからない人が悩んでいることを知って、そのような人の手助けになりたいと思うようになった。

 

自分を受け入れられたい

4人の先輩に履歴書の添削をお願いした。

 

一人一人違うところにちがう観点から

FBを入れてくださった。どの先輩からもすごく有難い御言葉をいただけて、自分には足りないものを痛感し、助けてくれる先輩がいることに感動した。

 

 

その中の一人に、

私の履歴書」を「履歴書」として評価した先輩がいた。

その評価、改善案はもう、私のモノではなくなっていた。

 

頭を下げない私の頭を上から押さえつけられるような心地がした。

就活とは頭をいかに下げるかだと考えている人にすれば当然のことだと思う。

でも、涙が出るほど悔しくて苦しかった。

 

例えるなら、私は、付き合ってほしい人に対して「付き合ってほしい」と手を差し出すことはあっても、頭は下げない。

でもその人は恋愛のアドバイスとして、付き合うためなら頭を下げろと言っているような感じだった。

 

 

頭を下げて会社員にさせてもらうくらいなら、頭を下げずに割りのいいアルバイトで食いつないでいきたいほどだ。

 

ただ、礼はする。それほど非常識ではない。

土下座と礼は違う。

 

自分でも、添削をお願いしておいて批判とは先輩に対してとんでもなく失礼だとおもう。

でもその先輩は私を見ていない、受け入れていないように感じた。

 

 

 

思い返せば今まで、本物の自分を受け入れてくれた人としか深く関わってこなかった。大切にしてこなかった。

 

本物の私というのは、いつでも自分が正しいと思っていて、正義感が強くて、与えることが好きで頑張ることが好きで、誉められるのがすごく好きで、夢見がちで、考えている自分が好きで、難しい単語は嫌いで、でも難しいことを考えることは好きで、順応性を持ってはいるが、順応することを酷く嫌っている。

 

大切だと思える人は皆、こんな面倒な私のことを「そんなところも良い」と受け入れてくれた。

多くの人に受け入れられなかったことから自分のコンプレックスになって、めんどくさい女と自分の価値観に蓋をし、ネガティブになってしまった。

本当の自分を受け入れられないから、受け入れてもらえる形になりきることが上手くなる。

 

長期間お付き合いしてた人や卒業しても会いたいと思える人は、タイプも何もかも違うように見えていたけど、

どの人も、私の価値観に賛同してくれた。心から思ってくれてるかはわからないが、きっと、どこかしらは良いと思う部分があり、そこを素直に肯定してくれた。

 

見た目でも、仕草や行動でも、優しさでもなく、私の頭のナカを誉めてくれた。

 

言動は、振る舞おうとすればどうにでもできるから、変えられないものを褒められることのほうが嬉しい。

 

 

 

 

こんな性格だからこそ、今回、

変えられないものや、言いたいことを変えるのではなく、

変えられることを、より相手に受け取りやすい形に収めるように、アドバイスしてくれた先輩方にすごく救われた。

 

私も、そんな素敵な先輩になりたいと思うし、自分自身も応援の力を活かして絶対に自分の思い描く理想をつかみたいとおもう。

 

 

 

 

世界を変えたいが具体的になってきた

お母さんと働くことについて話した。

 

話していく上で自分の価値観で気付いたことがある。

私は大きな個性も小さな個性も同じ個性として捉えることができる世界を作りたい。

 

頑張っても平均的な行動ができない人や、人と仲良くすることがあまり好きではない人、日常生活の障害となるようなものを抱えている人でも、生きにくいと感じている人でも、要領よくこなせる人でも、手が人より大きい人でも、甘いものが好きな人でも、好きなものが特にない人でも、好きな音楽を聴くと踊りたくなる人でも、「成長」や「常識」などの言葉に違和感をもつ人でも、

 

すべての人が同じ「1つの個性」として同じように捉えられる世界を作りたい。

 

難しいことでも、無理なことではないと思う。

 

私は優劣が好きではない。

自分が優れていると思っているけど、相手が劣っているとは思っていない。

どんな人であっても劣ってる人なんていないと思う。子供であっても、どんな人を傷つける人であっても、劣っている人はいないとおもう。

 

弱者と言われるような現段階では生活を十分にできていない人が優遇されてほしいとは思わないが、私と同じような生活が遅れるようになってほしいし、チャンスは全員平等に訪れるべきだとおもう。

 

私の志望する会社なら、出来るとおもっているし、この会社で出来ないなら自分で会社を立ち上げてでも常識と言われる言葉が蔓延している世界を変えていきたいと思っている。

 

研修やe-ラーニング、その他さまざまなコンテンツなどで意識や会社における一人ひとりの価値観を変えることでそのような自分の望む世界を作れると思う。

 

私は与えることによって与えられるし、救うことによって救われる。Wiennersの玉屋さんだって私と似た価値観を持っていて、世の中には何人かはきっと同じようにおもっている人がいると確証できる。

 

私たちが繋がって広がっていけば絶対に

可能だと信じている。