他人から省みる自分は

もし思わないなら、「与えたい」とおもわなくてもいい。

目的は自己都合だとしてもいい。

でももし、誰かに何かを与えたいと望むなら

自分の主観を押し付けるだけの提供物は

与えてると思っていいものなのか?

 

 

これは、あくまで私の主観で、それで救われている人もいることは否定しない。

ただ、自分主義な提供物を、誰かのためにされるのは納得いかない。

 

本音をいうと、私が誰かのことだけを考え思い遣った「与える」と、その人の自分主義な提供物を、同じ「与える」にされたくない。

 

そんなことを言っている私も与える人になれていないとおもう。こんな発言する人が与える人なはずがない。

 

私もその人のことも、私は与えるという表現を使われる人材に適していないとおもう。

 

そんなに簡単に与えることができる人になれるはずがない。

私たちは、まだ与えられている側にあるとおもう。

 

誰かのためと押し付ける私と、自分の好きなものを押し付けるその人。私たちはなにも変わらない。

 

少しずつ、受け取って、押し付けて、傷つき傷つけ、与えられる存在になっていくものなのだとおもう。

 

まだ若い私たちはもう少し訓練が必要なようだ。

 

成長したらあの人にも与えられるだろうか。

強く、柔らかくなれるだろうか。

弱く硬いあの人や、苦しむ誰かを救えるように。

 

そのために、今はもう少し、もっとたくさん、

無駄を、経験を、極めよう。