安物買いの私は何かを失っているのか

私には物の価値があまりわからない。

そのものになぜその値段がつくのか。

その値段がどれだけ妥当なのか。

それより安価であるものには見いだせず、

私にとって必要な価値のあるものは何か。

 

私にはあまりわからない。

 

ソフトクリームのコーンがプラス50円でワッフルコーンになることを私はわかっていて、さらに、ワッフルコーンのほうがクッキーのように染みにくくサクサクしているのもわかっている。

でも私は普通のコーンよりワッフルコーンのほうが50円高い価値があるのかわからない。

私にとってコーンはワッフルコーンであってもなくてもコーンの役割を果たしていればそれでいいのだ。

仮に私がワッフルコーン自体が相当好きであった場合には、きっと、プラス50円を払いワッフルコーンのソフトクリームを食べるだろう。普通のコーンが相当嫌いな場合も。

しかし、私はコーンを食べるためにアイスクリームを買うのではない。

アイスクリームを食べるためにアイスクリームを買うのだ。

 

本来の自分の欲望が充たされるのだから、その他の細かな欲望は満たすも満たさないもあまり大きな問題ではない。

なので、ものは安ければ安いほど良いと思っている。

私の思考は私の経験に基づいているため、これは私の生活する世界でかつ、私にのみ適応される。

 

同品種同品質のものが片方は安いとなったら安いほうを買ってきた。私には必要と感じない機能の有無が値段の差になっていたら安いほうを買ってきた。必要と感じた機能がついていなくても、自らの手で機能を付け足すことができた。

その経験が私の思考に影響した結果だとおもう。これは私のただの価値観であり、別に高価なものを買いたくないだとか、同じ価値観でいてほしいと願っているわけではない。

現に、貯金した50万円前後を一気にすべて使った経験が2度もある。

それは私にとっては価値のある使い方だったとおもっているし、浪費とおもったことはない。

 

 

こう記していて気づいたことがある。

私はその物自体の価値よりもその物を使ってどんな経験ができるかに対しての価値を求める。

 

高級なホテルに泊まりたいわけでも、ボロボロの旅館に泊まりたいわけでもなく、ただ、私の記憶の中で薄れることのない、楽しくて面白くて私自身がキラキラ輝けるものに、惜しみなく対価を支払いたいと思っている。

 

私の楽しいが他人とは違うところに重きをおいていることによる価値の差も少なからずあるだろう。が、しかし、それは、また別のお話としよう。