欠片が自分の中になければ感動しない

鬼滅を見てきた。

何の感情も生まれなかった。

というのはこの記事を書いている時点で嘘になるが、感動などと言われる感情にはならなかった。

 

このブログは人が見てるとは思っていないが万一のためにネタバレはしない。

しかし、私には巷で騒がれてるほどのものなのか疑問である。

 

これは私の人生のバックグラウンドの問題だと感じる。

常日頃、私は音楽の趣味は人の人生を映す鏡だと思っている。何の曲が好きか、どのアーティストが好きかによって、その人がどんな人で、どんな悩みや辛さを乗り越えて乗り越えようとして生きているかが分かる。

 

明るい曲が好きな人は暗い自分を表に出すことや弱音を吐くことを嫌う。暗い曲が好きな人は自分に陶酔するのを好む。有名なアーティストが好きな人は誰かと共有することが好き。まだ陽の目を浴びてないアーティストが好きな人は自分の個性やセンスは一般的ではないと信じている。

 

そんなことないと言う人がいればその人はきっと無名アーティストが好きな人だろうなと思う。これは偏見。

 

一つでも当てはまればめんどくさい性格と感じるが、私は全てに当てはまる相当な面倒くささの持ち主だ。

 

しかし、だからこそこのような偏見が生まれ、誰かの気持ちを想像し、想いを馳せ、誰かの気持ちに寄り添いたいと思えるとポジティブに捉えている。

 

鬼滅はきっとだれしもそれぞれの想いと背負うものを抱えているということが前提になっているように感じる。そして頑張ってきたもの、背負っているものがある人やそのことに共感できる人、可哀想という気持ちが強い人の胸を打つのだと思う。

 

私は丁度そのような感情が他の人より希薄になっている。

自分が苦しんできた悩みや抱えた問題を肯定される言葉でしか人の胸を打つことはできない。

誰が見るのかわからないような深夜にやってるような、鬼滅の何百倍も安っちいドラマや、五感の中の耳しか使わない音楽に感動し涙を流すことがある。

 

文字でも、音声でも、欲しい言葉が自分に触れるだけで感動といっているのだと思う。

傲慢さと単純さは自分のコントロールが簡単で相手の感情を動かすのも簡単なため、都合が良いと思う。

 

同じ音楽が好きな人には自分が言われたい言葉を言ってみたら仲良くなれるのかもしれない。

 

 

そんなうまくいけばいいのだが。笑