放浪の末、隠しコマンドを発見した

なぜだろう。

駄目になってしまったのは。

嫌いになってしまったのは。

充たされなくなってしまったのは。

 

本物ではないから?

過去の過ちのツケ?

私のせい?

あなたのせい?

 

 

 

中学3年の夏、それは空が一番近くに感じた季節だった。手の届かない「大人」「表舞台に立つ人」「男性」というものを至近距離に感じた。神聖なものが本当は神聖ではないと悟らされた時期だった。

 

それからネジが外れ、私は男性には心がないのだと思い込むようになった。私のことなんて穴としか見えてないのだと。手に届けば誰でもいい、私は身体しかない存在なのだと。

実際に心が存在しない人はたくさんいた。普段は心を持っていても、私に対しては心を持たない人も見受けられた。絶望してもう男性と関わらないと心に誓った時期もあった。

 

しかし、希望が捨てきれなかった私は、名前のない「コラム」と言う名の他人から「心を持つ男性もいる」ということを聞いて、片っ端から男性を試そうとした時期もあった。

期待して、試しては絶望し、また期待して、試しては絶望を繰り返した。

 

 

そのうち、私は期待を裏切らなさそうな、優しそうな人を好くようになった。優しそうな人たちは、私と深く関わろうとしなかったり、保守的だったり、価値観が合わなかったりして、なかなか長くは続かなかった。

 

大学1年で出来た彼氏は唯一「合う」という感覚を覚えた。その頃になぜ充たされると感じれたのかを言語化しておけばよかった。許せたのはなぜか。許されていると感じれたのはなぜか。

彼は自分勝手だったはずなのにちっとも自分勝手に感じなかった。

きっと、彼は本当に、「私によって喜ばせられてる彼の姿を見て喜ぶ私の姿」に喜びを感じていたのだろうと思う。

それが私の唯一の喜びで、彼にあって他の人にはないものだと思う。

 

私に喜ばせられる人も私の喜ぶ姿を喜んでくれる人はいた。でも、自分の喜ぶ姿に喜ぶ私のことを喜んでくれる人はいなかった。

相手が喜ぶ。私が喜ぶ。そこに繋がりはなかった。お互いが同時に喜ぶことを目標付けられることもあった。

しかし、それは違かったのだとおもう。

私の充実には時差があり、プロセスやコンボによって発動される必殺技のようなものだったのだ。

AボタンでもBボタンでも発動される訳がなかったのはこのせいだったのだ。

 

私の人生を順を追って整理したブログを書きながら発見した隠しコマンド。

 

コマンドを押してくれる相手はいるのだろうか。

 

これはもう私だけの話ではない上に、相手が努力して解決できる話でもない。それこそ、「合う」相手を見つけるしかない。

 

でも、コマンドが分かっていれば探しようがある。それだけでも大きな一歩になった。

今回の話の元になった経験も、このブログも、私に良い刺激を与えてくれたとおもう。