成長という言葉がキライだ

成長とはどのような状態を言うのか。

 

成長させるという言葉をよく耳にする。

部長が部員の成長を願ったり、先生が生徒の成長を願ったり、先輩が後輩の、社長が社員の、

 

その成長とは誰かの都合のいい型にはまるかどうかで決まっていくことを成長と呼んでいるのではないか。

 

自分の都合がよくなったからその人がそう合わせてくれたから成長したと呼ぶことは私にとって成長と呼ばない。

 

そして私は他人に成長したと評価できるほど自分は成長済みだと思っていない。私は私の価値観のなかで良いと思った道へもがき苦しみながら進んでいる。ただそれだけだ。生きやすい性格に順応してしまった部分もあるが、それが成長という言葉で評価されるならそんな成長はこっちから願い下げである。

 

私は個別塾で「先生」と呼ばれるアルバイトをしている。私は点の取り方や点を取るための考え方を諭すことをしているが、「成長」させているわけではない。ただ、できるようになったら彼らが少し生きやすくなると私の価値観で考えていて、彼らもその価値観に賛同してくれているから、私の価値観を披露している。それだけだ。

 

なんでもできるようになったらいい

という訳でもないと思う。

できないことに救われることだってあるし、できなくてよかったことだってあると思う。

 

怒る人が怒らなくなることも、怒れない人が怒るようになることも、やっていることは逆なのに良い変化として捉えられる。

怒る人にとっては、怒るという技術を手に入れてるのに批判されて、怒れない人にとっては怒るという技術を手放しているのに批判される。そんな何が誰の決めた良いことかわからないルールのようなものに振り回されすぎのように思う。

 

私は身長以外は成長しない。

私はただ、私の思った道へ、私がなりたい自分のため、助けたい誰かを救うために、必要なものを得て、不必要なものを捨てていく。

 

それだけだ。悪いか。

悪かったとしたらこの考えを説き伏せるほどの理論で私に証明してほしい。