歩んできた道と類似性

私はわたしと彼女をどうすべきだったのか。

まだ答えの出ない問いに苦しんでいる。

 

毎日のように一緒に過ごした学生時代、そんなこと思ったことなかった。

なのに最近彼女の言動に悩まされてばかりだ。

学生時代に交差した線が別々の方向に違う速さでまっすぐに延びていくことで離れていく線の先。

 

自分が線を伸ばしてできるようになったアレコレを相手がしないことが許せなくてイライラしてしまう。

 

できることが増えることは良いことなはずなのに、相手に対して狭くなっていく心に自己嫌悪。

 

最近は、できることが少ないと私が判断している「小学生」と関わることで狭くなる心を克服できたと思ってた。

自分軸で見ないようにしていたつもりだった。

現に先輩や後輩など、多少上下がある関係では許容できる場面が増えたと感じている。

 

しかし、友達という対等な立場になってしまうと、どうしても許せない。

私ができるようになったことたちはどれも難しいことではない。一つ一つ、自分が傷ついて環境に適応していっただけのことである。

それを「できないから」という理由でやろうともせず享受することがどうしても許せない。

 

私と同じくらいか、それ以上の恵まれた環境で過ごしている人が、望んだことを「できない」はずはないと思っている。

でも、相手ができないから、私がやる。そうすると、相手はできないことをできないままで許されてしまう。自分は許されなかったのに。どうしてもそれが羨ましくて、妬んでしまう。私も私みたいにやってくれる人が欲しかった。と。

 

じゃあやらなきゃいいじゃん。とか、合わなきゃいいじゃん。とか、そういうことではない。

私はこの事実に腹を立てているのではなく、気持ちを上手く処理できない自分に腹を立てているのだ。

 

人と何かをしようとすると、熱量が違うことなんて大いにある。

自分より冷ための人と何かをする度に腹を立てていたらキリがない。

しかし、不貞腐れて空いての熱量を下回ることで相手になにも求めないという方法は、相手よりも卑屈かつ共同作業の質に大きく影響を及ぼしてしまうため、自分にも被害を被る。

できないからやらない人とできるけどやらない人では印象が全く違うのだ。

 

できない側にもやらない正義みたいなものがある。口だけ羨ましいと言っておくことで褒めたつもりでいるとか、相手にやらせることで自分が楽したいとか、やったら負けだと思ってるとか、今までやったことないことはやりたくないとか。

気持ちはわかる。それでどうにかなるなら私もやりたくない。

そんな人生で楽しいなら私もやりたくない。

 

冷めた波のない人生で楽しめるなら私も何もかもやりたくない。

でも、私は楽しめない。

 

お前が熱い方が好きなら勝手に熱くなってろよ。冷たい方が好きな奴に強要すんなよ。

ごもっとも。

分かってる。好きでやってるだけ。好きで色々できるようになりたいだけ。

 

でも、色々できるようになったのは、あなたに搾取されるためではないのよ。

ありがとうという言葉も時には鋭利な刃物になることがあるの。相手が私の善意を受け取ったという証拠として実感してしまうから辛くなってしまうことだってあるの。

万能だとおもってるんでしょうけど。

 

 

 

でも、真逆に見えるものって案外似ているものだったりするなんて言うから、きっと私もそんな自分にコンプレックスを抱きながらも同じ事をしてしまっているのよね。

許せないのはあの子じゃなくて私のことなのよね。

 

こんな醜い心をどうすればいいんでしょうね。答えはどうやったら見れるのでしょう。

答えつきのドリルの答えを見ながら問題を解くことばかりしてきた私は答えを見ながらでないと動けない。

 

マイナスな私はゼロのあんたよりもダメな人間だ。