いたいのいたいの飛んでった

忘れていたこと

体力は10%以下になったらなにしても自分の力では戻ってこれなくなること

 

15%以上になれば勝手に少しずつ上がっていくこと

 

与えることで救われること

 

いたいのいたいの飛んでいけ

って誰かが言った時に、

私も言ってあげたいなとおもうこと

 

私は欲望に従順だということ

 

心が私の体調、表情、性格、全てを司っていること

 

少しのことで気分が大きく変わること

 

与えられた愛があれば与えられる愛があること

 

 

 

アパシー

私は今めちゃくちゃ病んでいる。

 

思い当たるような具体的な苦痛の理由はないが、

なぜこのような感情になるのかはわかっている。

 

1つは季節や気候、社会の情勢など外部の環境によるものが悪化しているからだ。

乾燥は心の潤いまで奪っていく。冷えは心の熱をも奪う。それはわたしだけの話ではなく、同じ気候に面している人間は誰だってなり得ることだ。

そして、昨年末の休みで体のスイッチがOFFり、忍耐強さがリセットされているため、エネルギーが不足している。

 

二つ目は、頑張りの少なさだ。

誰かのため、何かを成し遂げるための労力など、体力の消費は充実感となって返ってくる。

しかし、なんとなくやる気がでない、力を抜いてダラダラ労力を費やすなど、体力の消耗はただただ自分を削る行為でしかない。

 

頑張っていないため、ご褒美を摂取する資格を自分に与えることができない。

負のスパイラルはどこまでも続いてく。

 

感情が鈍化し腐っていき、

好きだったものにもトキメキをなくし、心が動かなくなっていく。

 

ここまでくると厄介だ。

誰かが落ち込んでる私に優しさを与えてくれても

心が腐っているため、なかなかその優しさに素直になれない。

 

こうなってしまったら、雷が落ちるのを待つしかない。ハッと気づき、大きく心が動くような雷。

 

雷が落ちるのを拒絶しているといつまでたっても苦しいままだ。

 

拒絶することが悪い訳ではない。ただ、その利益還元率が低い苦しみが続くだけである。

だから、他者に危害が及ばない限りはその苦しみを好むなら拒絶すればいいとおもう。

 

ダメではないが良くはないものが

きっとこの世には溢れている。

 

 

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なんてダラダラ理屈をこねてみたが

生理というただの生理現象。

 

単純すぎて笑けてくる。

おいぬさまを思い出す

今まで動物と触れあうことはそんなに多くなかった。

 

動物は苦手だ。言葉が伝わらないし、なのに私の心の奥の腹黒くて汚いところを見透かしているような目で私のことを見てくる気がして。

 

昔、散歩させてもらった犬がいた。

飼い主から聞いた情報では、認知症らしく、かなりの老犬という。

道を覚えてるはずなのに行ったり来たりするそのおいぬさまを見て、

たくさんのことを考えさせられた。

 

人生を振り返る、人との関わりかたを振り返る、世界を振り返る

良いきっかけになった。

 

だから私は忘れてないよ

そう、天国のおいぬさまに思いを馳せる。

 

たまに思い出せるように、

この思いをここに記す。

100年の恋の相手は恋だった

気持ちを注げる相手がいなくなって

気持ちが発散できなかった。

 

そんなときに彼と出会った。

別に彼じゃなくても良かったのかもしれない。

ただ、タイミングが良かった。

彼は恋の分身でおもちゃだった。

 

 

仲良い男友達はそれまでにもいたけど、

許したら始まってしまいそうな

優しい人ばかりだった。

 

私を好きになる人は

センスないなぁと思う。

私を選ぶ人は

見る目ないとおもう。

 

でも、私が色仕掛けする人は

大抵、色仕掛けじゃ落ちない。

どんなに好きになってもらおうとアピールしても、

私が好きになった人が

こっちに振り向いたことがない。

そんなところがその相手の良いところだとおもってる。

 

好きになる人はいつも

彼女も女友達もあまりいない。

硬派で男友達や一人の楽しみかたを知っている。

 

私はいつも、そんな入り込む隙間のない人に恋をする。

必死な私と余裕のある相手の温度差、振り向かれない苦しさ、目があっただけで感じられる高揚感がとてつもなく楽しい。

 

すぐに気持ちが溢れて

伝えてしまうから、いつも相手は

私の手札を全部見ながら戦ってくる

 

弄ばれたり、距離をとられたり、天狗になったり、都合よく使われたり。

 

悔しくてたまらないこともあるけど、もうどうしようもないから諦める。

 

この条件に当てはまる人と長時間の接触(話す会う)をすることで

好きになっていくのだとおもう。

 

時間が多ければ多い人に惹かれていって、

少ない人への気持ちは薄れていく。

 

単純だ。

 

熱々な恋をしている最中にそんな冷たいことに気付いてしまったんだなぁ。

熱すぎて盲目になった自分の火だるまをこわくなって自分で消してしまう臆病さは

恥ずかしくて滑稽だ。

服についての記事を読んで

この記事を書いた背景

服についての個人の考えが書かれている読み物を読んだ。

 

批判や対抗をしたいわけでも、その読み物の著者に読んでほしいわけでもない。

ただ、その人なりの意見を読んだとき、考えさせられるものがあった。それだけだ。

そのため、「服」というテーマをお借りして、私も服に対する持論をを話していきたい。以下話すことはその人の話題とは違った切り口で見る「服」についてだ。

 

自分を表すということ

自分の服への価値観は結構あるほうだが、言葉にしたことがなかった。

自分なりの意見を誰かに向かって言うことは、さまざまなリスクや面倒さがあるからだ。

ブログのように、一人で語ることは、誰からも遮られることもなければ、相手の価値観をあたかも自分の価値観のように振る舞い共感する必要もないため、とても都合が良い。

 

 

服を着る基準

私には相手に見せるために服を着ているときと、自分のために服を着ている時がある。

私は二つの側面が関係すると考えている。

量産型な誰かになりきる側面 と、私自身の個性を尊重する側面 だ。

 

 

■量産型な誰かになるとき

女子向けと男子向けがある。

相手への印象を気にしているときに量産型女子になりきる。

 

 

  • 女子向け

前記にある通り、私は相手への共感を全身全霊で表す。

女子には様々なタイプが存在する。私はある程度偏りなく仲良くしていきたいと感じている。そして、その人たちに仲間意識を感じてもらいたいと思っている。

 

イマドキな女の子と会うときは、女子受けの良い服かつ、相手の系統と似た系統で比較的可愛いよそ行きの服を選ぶ。

この系統の女子はすぐに写真を撮る。服装の系統を合わせ、統一感を出すことで「仲良し感」を演出する。【膝丈スカート】

 

プライドが高い女の子と会うときは、カジュアルでダサすぎず目立ちすぎず、色味を抑えたそれとない服にワンポイントでダサ可愛いものを身につける。相手の服の系統とは違う系統を選ぶ。

この系統の女子は、自分と相手を比べ、見下したい願望がある。しかし無頓着すぎると戦う気持ちすらなくなり、眼中に入らなくなる。また、同じ系統よりも違う系統のほうが、無駄な争いを起こさなくて済む。【ロングスカート】

 

仲良しを押し出したい女の子と会うときは、ラーメンのスープで汚れても良いような、力が抜けた無地の服(わざわざ購入する)や、普通な人の前では着れない個性的な服を選ぶ。

この系統の女子は、なぜか「私女じゃないから~」と言うと喜ぶ。なにも気にしていない素の自分を演出することで、相手に絶対的な安心感を抱いているのだという表現をすることができ、親密な仲を演出できる。【デニムズボン】

 

 

服から受ける印象は偏見となってこびりつくし、相手へのメッセージを表現できるため、めんどくさい女子という荒波を越えていくためにはこのような服の選び方を武器として持っておくと便利だ。

 

 

  • 男子向け

男は単純だ。色合いが淡い服を着ているだけで優しいイメージを抱き、

露出の多い服を着ているだけでチャラチャラした遊んでそうなイメージを抱き、

濃い色の服を着ているだけで気が強そうなイメージを抱き、

カジュアルなパーカーに落ち着いたロングスカートでスニーカー履いていれば話しやすそうな手軽なイメージを抱く。

 

私は、相手の好み、相手にどう見られたいかや相手とどんな関係になりたいかを考えた服を着ることで相手との距離感を調整することができると考えている。

 

 

■自分の個性を尊重する

一人で出かける時などは周りに流されない派手な服や、コスプレかと思うようなロリータやゴスロリの服などを着る。

 

「誰にも合わせない」という「自分への合わせかた」は少し矛盾していて幼稚でありきたりだ。自分でも自分作りに必死になる自分に笑けてくる。

 

でもこんなことがアイデンティティーを幼稚な自分に証明してあげるためには大切で、これがないと自分が埋もれて見えなくなってしまう。

 

音楽の趣味も同様だ。

 

いじらしいこれらの拘りは、自分を客観視したときに必死になってて可愛いなあとおもう。

 

私は今の私を変えたいと思わないし、変えるつもりもない。だれかに感化され影響され、自分が変わりたいと思う日までは、こんな自分を楽しんでいきたいと思ってる。

 

何が言いたいかというと、結局自分が大好きで、こんなひねくれた考え方も全て含めて、自分を愛しているということだ。

 

ちょっと苦手な叔父さんの話

情けは自分に返ってくるから人のためじゃない

 

正月の親戚の集まりで叔父さんに言われた。

情けをかける大切さは実感し行動しているが、この言葉に違和感を覚えた。

 

返ってくるから優しくするわけではない。

私はやりたくて優しくしてるのだ。

 

恩を売ることは気持ちが良い。

貧しい人に自分は与えるほど豊かなのだと見せつけることができて、優越感に浸れる。

優しい行為をした自分のことを誇らしく思える。自信がつく。好きになれる。

相手も喜んでくれる。救われてくれる。

そしてなによりも、お互いが笑顔になれる。

 

別に恩それ自体にそれ以上のことは望まない。返ってきてくれるもんなら返してほしいとは思うが。

 

そして、私は返ってくるから恩を売るという考え方を低次元だと思っている。

これはただ私の価値観であって、相手を見下しているとか見下したいとかではない。ただ私はその判断軸にはもういない。

その事自体を自分自身が否定も肯定もしない。悪いことでも良いことでもない。価値観なだけ。

 

 

他人の話を聞くなかで、自分が感じた違和感を細分化し、分析し、言語化することで自己理解を深めていく。

これからもそんな自分を大切にしていきたい。

一年を振り替えって

今年をまとめると。

今年一年は「雑多」だった。

どこにも誰にも身を置くことなく、様々な人と様々なことをした。

 

とてもいい時間の過ごし方だと思う。

ウイルスという大きな障壁はあったものの、

あったからこその楽しみ方もできたし、

それがキッカケになって新しいことをする

チャンスがもらえたと思う。

 

 

過去の自分と人々に感謝。

チャンスをつかませてくれたのはいつも過去の自分とそのときお世話になった誰かのおかげ。

 

過去の自分。

今こんなにポジティブな感想が出るのは

過去の自分が何でも楽しんでくれたから。

本当にありがとう。

 

そして、私を彩ってくれたたくさんの人々。

一人残らずいい人で、たくさんの感情をもたらしてくれた。とてもとても尊敬してる。本当にありがとう。

 

 

今年のハイライト

大きな思い出の中の一つは、

今年の夏に私から身勝手に別れを切り出したと思えば、冬に栃木での自分の予定終わりで急に電話し、寒空のもとに呼び出し、別の男についてを話しながらマッサージをし、夜遅くまで付き合わせたにもかかわらず、文句一つ言わなかった上に、ちゃんとマッサージ代としてガソリン入れてくれ、帰りは運転中に寝ないように自分が家についても起きててくれた元カレのこと。

ありえないほどすごくいい人で、節々尊敬してるし、好きな人の中の一人だと改めて実感した。(付き合うとかではない意味の。笑)

 

他にも、中・高の友だちも、今年新しく仲良くなった人たちとの出会いも、一つ一つがとても良い思い出で、全部ハイライトで、登場人物みんな好きになることができた。

 

 

 

これからの抱負

これからも、大好きな人たちにたくさん頼って、もっともっとお世話になっていきたい。

たまに貰いすぎた恩の一部を返していきたい。でも、借りがあったほうが返すために関係を続けられるから、借りた中の全部は返さないでいきたいw。(元カレから学んだ)

 

 

多人感謝

最後に、

いつもこのブログを読んでくれてる人たち(PV100突破ありがとうございます)、毎回スターくれる人、そして、私の心を豊かにしてくれる全部の世界の人たち(死人も含む)、

本当にありがとうございます!

 

私の世界もあなたの世界も誰かの世界も、

全世界を救うために、

先ずは自分が、「たくさん経験し、たくさん考え、感情、言葉を見つけ、もがき苦しむ」ことを

これからも楽しんでいきます!

 

来年もよろしくおねがいします!