CONCEPT LIFEを読んで

約一年間働いているバイト先から、最終面接の前の「常識力テスト」をきっかけに不採用通知が届いた。

仲良くしてくれているそのバイト先の上司のワタナベさん(仮)に報告したら、長文での励ましのお言葉と一緒にこの本をおすすめされた。

 

内容は私みたいな強めなタイプの人がおばさんになるまでのキラキラした労働人生といった感じだった。

説教じみた諭しみたいなものがあらゆる場面にちりばめられていたけれど、そのどれもが自分の中に持っている価値観で、どれも真新しくて参考になると思うような特別な言葉ではなかった。

もちろん、どの言葉も素敵で、大切にすべきで、実行することは難しいけどできないことではなくて、実際に私が心がけてることもたくさんあった。しかし、今の私が全部を実行できているかと問われれば、「やらなきゃいけないのはわかってるんだけどねぇ」といってしまうようなものもあった。

 

でも、私はこの本を読むことが大切なのではないと思っている。

ワタナベさんから私に対してこの本を薦めたこと自体が価値のあるものだと思う。

つまりCONCEPT LIFEというこの本自体が、ワタナベさんからの長文のメッセージだ。

 

この本で、私が今できていないことを指摘されたのではなく、できていることを肯定されたのでもなく、ワタナベさんは「この気持ちを大切にしていきたいわよね」という、気持ちを表しているような気がする。(※語尾の「わよね」というのは、いきたいという強いものではなく、いきたいわ。と本人が意識している部分と、よね?と私の中にも共感できる部分があると信じていることを合わせた口調であり、言いそうだからという意味ではない)

 

私自身は他の人(特に同世代の日本人)と共通する部分があまり多くはないと感じているし、その共通しない部分に私なりの自信を持っている。

その価値観と似たものをワタナベさんも持っていて、私たちは、周りがどういうことを考えるか、こんな人はこんな風に考えるのだろうという感覚にも敏感でありながら、そのなかで自分はこのように考える・考えたい、という感覚や考え方を明確に持っているのだとおもう。

 

だからこそ、ワタナベさんはこのような本を私に薦めてくれたのだと思うし、共感し、私が何かを考え、就活にとってワタナベさんの考える道を本を通して明確に伝えることができるだろうと思ってくれたのだとおもう。

 

この本とワタナベさんがいつ出会ったのかはわからないが、この本の作者の柴田さんと私に重なる部分を感じてくれたように思える。本を読んで、この人と考え方が似てるなあ、目指している姿がなんとなく同じような感じだなあ、このブログでの話し方も似てるもんなあ(このブログをワタナベさんは知らないが)。などと、漠然と思ったこともあるが、なによりも、私はこの本を読む前に、ワタナベさんとお昼休憩で雑談をしているときに、「道をおいしそうだと思った飲食店で覚える」という話をしていた。柴田さんも飲食店が印象に残るといった話をしていたため、具体的にも重なっていると思う。

 

意見の合う友達から、仲の良い友達を紹介してもらったような、お母さんのお母さんと会ったみたいな感覚になった。

自分より強くて尊敬するお母さんが尊敬するお母さんだから、私にとっても尊敬できる部分があるよね。みたいな。

私の今の考え方は21歳なりの荒い若さみたいなものはもちろん山ほどあって、たぶんワタナベさんからしたら指摘したくなるもどかしい部分しかないほどたくさんあるだろうけど、根源の部分では悪くないとおもってくれてたりもするのかな、と思う。

 

また、私は自分でも気づいているが、腰が重い。起動力はテンションで、行きたい道や必要性、そのときの気分という条件がそろわないと細かい努力を突き進むことができない。逆に条件が揃えばどこまででも極端に行動することができる。だれだって腰は重いものだろうから普遍的なものではあるとはおもう。きっと、そんな私のやる気スイッチをワタナベさんは押そうとしてくれたのではないかとも思う。

 

 

本自体よりも、そのワタナベさんの気持ち。ただの5か月前に出会ったバイトでしかない私に対する誠心誠意の向き合い方。ビジネスだけではない、私のこと、私の人生をより私の納得する物にするために支援してくれようとしている姿勢。

そんなものに私は深く心を動かされた。

 

今日が私の就活の始まり。ほかの人は内定をもらい、懇親会に参加している中で、私は0からのスタート。安心のために安定な企業に早期に落ち着くより、焦りながら、泥臭く、ダサい私でぎりぎりまで奮闘するほうが私らしい。そして、そのダサい恥ずかしい未熟な私をこうやって隠さずに公表していくことが一番私らしい。

最終的に納得できれば最終をどこに見出してもよい。就活でも、25歳になった時でも、労働しなくなったときでも。ただ、最終的な後悔だけはしないようにしたい。