あこがれのくやしさ

すごく気の合う素敵な人と出会った。

その人は私が努力して変化してきた私の姿を

自然にこなしてしまう人だった。

 

一言で表すと「空っぽ」だった

アルミのような薄くて響く何も入ってないカラカラな缶みたいな人だった。

 

私はずっしり詰まった理屈という泥や暗いジメジメしたものを少しずつ外へ捨て去っていって今少しずつ内容量が減ってきている。

このブログを書いていることもその名残である。カラカラな人は抱いた感情をブログで発散するようなひねくれかたをしない。たぶん。

 

そんな自分を悪いとは思っていないが、心を無音にできる人や自由に振る舞える人に憧れや尊敬がある。

それは年齢の差もあって、レベル21の私がレベル31の人と戦うのは限界がある。

悔しいが社会人という経験値は私には補えない。社会人1年目の人でも何年働いた人にも未経験の私には太刀打ちできない。

そのうち経験することだし、きっとその人と同じ年齢になったときには私はきっと違う性格の人間になっていると思う。

でも、戦っているのは今で、私はまだ不器用でその人は器用だった。

 

この人と関わったらどうなるのだろうか。

私も空っぽになれるのだろうか。

中身が詰まった重い自分を嫌ってしまうのだろうか。

その人の空っぽさに自分がついていけなくなってしまうのだろうか。

 

予測ができないことだから手を伸ばすことを躊躇ってしまう。

空っぽならきっとなにも考えずに手を掴んで自分からブンブン振り回して振り回されて行くんだろうと思う。

それが出来ないのは私の安定志向のつまらない部分。

みんなそうとか周りはもっと出来ないとかが励ましにならないくらい、ビビる自分が悔しい。

痛い目に遇わないとわからない感覚も経験もあるはずなのに、痛くない方を選んでしまう。

 

ハードルの前でその都度ハードルの高さを計ってから飛ぶのは、どんだけ急いで計っても、何も考えずハードルを飛び進めていくよりも時間がかかる。

 

飛ばない人よりはましだと自分を励ます。

計測速度を早めることに尽力するか、測らずに飛び込む勇気をもつかの二択。

決めきれずどちらも疎かになってしまっている。

 

空っぽになりたいなりたくない。

バカになりたいなりたくない。

大人になりたいなりたくない。

上手くなりたいなりたくない。

 

どっちにもなれない私は何者にもなれないまま浮遊。

冬。

 

ダニエルを見て

映画を見てきた。

すごく印象的なシーン(オブラートに包んだ)

がたくさんあった。

私が恐怖を禁じる映画を今まで見た経験がなく、耐性がなかったこともあり、圧倒された。

 

最後になるにつれて結末は見えていた。

スプラッシュマウンテンの最前列に乗ってるみたいに、

これから進む方向にどんなものがあるのか分かる感覚。

それまでの落ち方から考えて最後におもっきり落ちることを予感する感覚。…絶望。

 

主人公は怖がりながらも

たくさんの恐怖に打ち勝っていく。

私なら絶対にできないだろうなと

確信できるほどの恐怖が何度も何度も起こり

それらを乗り越えた。

 

孤独が産み出した化け物は

大きな恐怖となって返ってくる。

自分が産み出したはずなのに

産み出された化け物は急スピードで成長し

自分を越えるほどの大きさに膨れ上がる

 

その化け物から逃げることはできない。

絶対に退治しなければならない。

 

孤独から逃げてしまうほど弱い自分が、

悪に豹変してしまった自分の正義だったものを成敗ことができるだろうか。いろんな感情が渦巻くだろう。怖いとわかっている地獄に足を踏み入れる自信がない。大好きな友達に敵意を向けるのは相当つらいだろう。

 

「身を滅ぼす」

 

この言葉が表現として今の私が感じたこの映画の要約だ。

 

孤独に犯されてしまう前に救われたい。

孤独に犯されてしまう前に救いたい。

 

みんなを、世界を救いたい。

目を背けるほど怖かったが

昇華し、良い経験になった。

 

頑張らなきゃ。

 

 

2020年11月19日の下書き

元彼と将来の愛を誓いあった場所が工事によって修繕され、跡形なく変わってしまった。

無造作な階段やなんのためでもない土の上に落ち葉が落ちた広場、小汚ない池、小汚ないベンチ。

全てが想い出だった。思い出が全てだった。綺麗に変わってしまったら、なんの価値もなくなってしまう。

それが悲しくて少し嬉しい。思い出さなければきっと記憶は消えてしまう。それでいい。

思い返さないくらい今を生きることのほうがよっぽど幸せだと思う。想い出が思い出されて、エゴサして彼のアカウント開いてツイートや写真の撮り方から精神状況や女性関係、仕事関係を勘繰り、もう彼を好きでもないのに、自分には全く関係ない情報をあれこれ想像して一喜一憂しなくてすむ。

しらんが。

 

 

昨日塾で苦手と思ってる子から分かりやすいと褒めてもらえた。その子は前の授業で私が言ったことを覚えていてくれたし、宿題も自分の身に付くまでしっかりやってきてくれていた。その前の授業の子がわたしの話を一切覚えていなかった子で、言っても意味ないなぁと豆腐に釘を打っていたため、すごく嬉しかった。初めて分かりやすいって言ってもらえたし、伝わっていることが分かって無駄ではなかったと思えた。

 

 

今日は小学生姉弟を教えた。姉弟を二人の先生がシフト曜日ごとに教える。前担当の先生が弟に厳しいらしく、親も姉も弟のことを酷く扱う。集中力が続かないことを先生は親へ密告し、姉も加勢する。しかし、私は先生は生徒の良いところを引き伸ばすためにいるべきだと思う。苦手を克服するためであったとしても、その当事者の心の不健康を伴うものではあっていけないと思う。私は姉弟どちらも楽しく勉強してほしいし、自信をつけてほしい。

そのためにコツコツと褒め伸ばし挑戦改善を実践しているから、はっきり言ってその先生が嫌いだ。元々知り合いで一個下で同じ小中高校でその全期間で好きではなかったということもあるが、生理的なものなど個人的感情を差し引いても嫌いだ。迷惑だ。人生がかかっているんだ。お前ごときに怒られた経験が周りを巻き込み深く傷として刻み込まれてしまうんだ。軽々しくできないやらないと言わないでほしい。やる気を引き出すことができないお前がいけないんだ。ひとのせいにするな。わたしのことはいいんだ。一旦棚にあげる。

 

 

次の時間、幼稚園生が塾に来た。子供を相手した経験が少な過ぎてどうしていいかわからない。親にベッタリで泣く彼女の心を開くことはあと一歩出来なかったが、最後ハイタッチして送り出せた。少し打ち解けられた気がして嬉しかった。次の週にさっき出てきた嫌いな先生がその子を担当するらしい。うまくいかなければいいのにと思ってしまう自分がとても嫌だ。

 

お酒を飲んだ。泣きたい。泣く理由も頑張ったこともなにもなくて、マカロニえんぴつのヤングアダルトを聞いて片想いのお兄さんが好きだといってたなぁと思い出して純粋に音楽が聞けない自分とその音楽自体が嫌になった。

 

こんなことを今までは話のネタにしてその辺にいるテキトーな男に泣きついて発散させていたが、今はそれもなくブログという誰が見てるかわからない、なんなら誰も見てない世界に入り込んで吐き出している。

それがとても気持ちいい。清々しいが少し淋しい気分だ。

 

 

 

いたいのいたいの飛んでった

忘れていたこと

体力は10%以下になったらなにしても自分の力では戻ってこれなくなること

 

15%以上になれば勝手に少しずつ上がっていくこと

 

与えることで救われること

 

いたいのいたいの飛んでいけ

って誰かが言った時に、

私も言ってあげたいなとおもうこと

 

私は欲望に従順だということ

 

心が私の体調、表情、性格、全てを司っていること

 

少しのことで気分が大きく変わること

 

与えられた愛があれば与えられる愛があること

 

 

 

アパシー

私は今めちゃくちゃ病んでいる。

 

思い当たるような具体的な苦痛の理由はないが、

なぜこのような感情になるのかはわかっている。

 

1つは季節や気候、社会の情勢など外部の環境によるものが悪化しているからだ。

乾燥は心の潤いまで奪っていく。冷えは心の熱をも奪う。それはわたしだけの話ではなく、同じ気候に面している人間は誰だってなり得ることだ。

そして、昨年末の休みで体のスイッチがOFFり、忍耐強さがリセットされているため、エネルギーが不足している。

 

二つ目は、頑張りの少なさだ。

誰かのため、何かを成し遂げるための労力など、体力の消費は充実感となって返ってくる。

しかし、なんとなくやる気がでない、力を抜いてダラダラ労力を費やすなど、体力の消耗はただただ自分を削る行為でしかない。

 

頑張っていないため、ご褒美を摂取する資格を自分に与えることができない。

負のスパイラルはどこまでも続いてく。

 

感情が鈍化し腐っていき、

好きだったものにもトキメキをなくし、心が動かなくなっていく。

 

ここまでくると厄介だ。

誰かが落ち込んでる私に優しさを与えてくれても

心が腐っているため、なかなかその優しさに素直になれない。

 

こうなってしまったら、雷が落ちるのを待つしかない。ハッと気づき、大きく心が動くような雷。

 

雷が落ちるのを拒絶しているといつまでたっても苦しいままだ。

 

拒絶することが悪い訳ではない。ただ、その利益還元率が低い苦しみが続くだけである。

だから、他者に危害が及ばない限りはその苦しみを好むなら拒絶すればいいとおもう。

 

ダメではないが良くはないものが

きっとこの世には溢れている。

 

 

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なんてダラダラ理屈をこねてみたが

生理というただの生理現象。

 

単純すぎて笑けてくる。

おいぬさまを思い出す

今まで動物と触れあうことはそんなに多くなかった。

 

動物は苦手だ。言葉が伝わらないし、なのに私の心の奥の腹黒くて汚いところを見透かしているような目で私のことを見てくる気がして。

 

昔、散歩させてもらった犬がいた。

飼い主から聞いた情報では、認知症らしく、かなりの老犬という。

道を覚えてるはずなのに行ったり来たりするそのおいぬさまを見て、

たくさんのことを考えさせられた。

 

人生を振り返る、人との関わりかたを振り返る、世界を振り返る

良いきっかけになった。

 

だから私は忘れてないよ

そう、天国のおいぬさまに思いを馳せる。

 

たまに思い出せるように、

この思いをここに記す。

100年の恋の相手は恋だった

気持ちを注げる相手がいなくなって

気持ちが発散できなかった。

 

そんなときに彼と出会った。

別に彼じゃなくても良かったのかもしれない。

ただ、タイミングが良かった。

彼は恋の分身でおもちゃだった。

 

 

仲良い男友達はそれまでにもいたけど、

許したら始まってしまいそうな

優しい人ばかりだった。

 

私を好きになる人は

センスないなぁと思う。

私を選ぶ人は

見る目ないとおもう。

 

でも、私が色仕掛けする人は

大抵、色仕掛けじゃ落ちない。

どんなに好きになってもらおうとアピールしても、

私が好きになった人が

こっちに振り向いたことがない。

そんなところがその相手の良いところだとおもってる。

 

好きになる人はいつも

彼女も女友達もあまりいない。

硬派で男友達や一人の楽しみかたを知っている。

 

私はいつも、そんな入り込む隙間のない人に恋をする。

必死な私と余裕のある相手の温度差、振り向かれない苦しさ、目があっただけで感じられる高揚感がとてつもなく楽しい。

 

すぐに気持ちが溢れて

伝えてしまうから、いつも相手は

私の手札を全部見ながら戦ってくる

 

弄ばれたり、距離をとられたり、天狗になったり、都合よく使われたり。

 

悔しくてたまらないこともあるけど、もうどうしようもないから諦める。

 

この条件に当てはまる人と長時間の接触(話す会う)をすることで

好きになっていくのだとおもう。

 

時間が多ければ多い人に惹かれていって、

少ない人への気持ちは薄れていく。

 

単純だ。

 

熱々な恋をしている最中にそんな冷たいことに気付いてしまったんだなぁ。

熱すぎて盲目になった自分の火だるまをこわくなって自分で消してしまう臆病さは

恥ずかしくて滑稽だ。