成長という言葉がキライだ

成長とはどのような状態を言うのか。

 

成長させるという言葉をよく耳にする。

部長が部員の成長を願ったり、先生が生徒の成長を願ったり、先輩が後輩の、社長が社員の、

 

その成長とは誰かの都合のいい型にはまるかどうかで決まっていくことを成長と呼んでいるのではないか。

 

自分の都合がよくなったからその人がそう合わせてくれたから成長したと呼ぶことは私にとって成長と呼ばない。

 

そして私は他人に成長したと評価できるほど自分は成長済みだと思っていない。私は私の価値観のなかで良いと思った道へもがき苦しみながら進んでいる。ただそれだけだ。生きやすい性格に順応してしまった部分もあるが、それが成長という言葉で評価されるならそんな成長はこっちから願い下げである。

 

私は個別塾で「先生」と呼ばれるアルバイトをしている。私は点の取り方や点を取るための考え方を諭すことをしているが、「成長」させているわけではない。ただ、できるようになったら彼らが少し生きやすくなると私の価値観で考えていて、彼らもその価値観に賛同してくれているから、私の価値観を披露している。それだけだ。

 

なんでもできるようになったらいい

という訳でもないと思う。

できないことに救われることだってあるし、できなくてよかったことだってあると思う。

 

怒る人が怒らなくなることも、怒れない人が怒るようになることも、やっていることは逆なのに良い変化として捉えられる。

怒る人にとっては、怒るという技術を手に入れてるのに批判されて、怒れない人にとっては怒るという技術を手放しているのに批判される。そんな何が誰の決めた良いことかわからないルールのようなものに振り回されすぎのように思う。

 

私は身長以外は成長しない。

私はただ、私の思った道へ、私がなりたい自分のため、助けたい誰かを救うために、必要なものを得て、不必要なものを捨てていく。

 

それだけだ。悪いか。

悪かったとしたらこの考えを説き伏せるほどの理論で私に証明してほしい。

 

地獄のなかで動く

企業説明会に参加して

企業側は良い面や就活生にとって「楽」に働ける、都合の良い面や理想的な面をアピールする。

 

怒らないだの優しい人が多いだの、緩そうなイメージを植え付ける。

その様子はまるで、吹奏楽部の勧誘みたいだ。

過剰なイメージ付与は本当の良さがうもれてしまう。もしこの説明会しか知る機会がなかったらきっとその会社を希望しないとおもう。

 

安定も大切だけど、安定だけで決めたくない。

 

 

 

 

 

就活をはじめて

企業はやる気のある目のキラキラした人を採用したがる。

 

就活を始める前までは、働くことに希望を持ち、キラキラしていた人でも、

やりたくないことや、面倒なこと、不採用通知、孤独感、焦りでどんどん目の輝きを失っていく。

面接を受ければ受けるほど、自分がどんな目標を持ってたのか、どうしてどんなところに入りたいのかを忘れていく。失っていく。

 

輝きを失った自分で面接を受けても思うような結果にならず、精神が不安定になると他人の声も届かなくなり、負の循環に陥っていく。

今まで他人と比べず生きてきたとしても、面接などで他人の人生を知り比べられ、自分は無力だと実感させられる。

上には上がいるのに全然下はいなくて、唯一無二と思ってた自分がありきたりな平凡な人間だと思い知らされる。

 

そんな環境を生き抜くことができるのだろうか。

 

 

 

似てる人と出会って

通話アプリで自分の性格と似ている人に出会った。

出会い系よりはフラットな不特定多数と話せるアプリでたまたま入ったルームの人と仲良くなった。

自分が二人いたらいいのにと思った時期があったため、価値観や相手との関わりかたが似ている彼はとても理想的だった。

ちがう部分や少しモヤっとする部分もあるけど、今までより自分のコンプレックスやネガティブと思っていること、自分が誇りをもってることを肯定されているのは嬉しい。

 

就活で弱ったタイミングで現れた久しぶりのクスリ。求めるときに現れるものなのだと思う。

消耗してしまうものだとしても、ためらわずに消耗していきたい。

 

明けなかった朝と妄想の夜

昨日の夜、ずっと放置されていた人と縁を切った。

まあまあ好きだっただけに切なさが募った。

放置されてるだけあって今回も返信が遅かった。でも優しくて、でもあっけなく別れを受け入れられた。

好きで切なくて悔しくて心臓がバクバクしてなかなか眠りにつけなかった。

寝たのか寝れてないのかわからないまま朝がきて、起きてからもずっとその人のことが頭を占領した。チャットモンチーの曲(特にハナノユメ)がやけに胸に刺さった。

 

母に、昨日私が買った新しいお高めな柔軟剤で、お気に入りの寝巻きを洗ってもらった。

私の推している芸能人(?)アーティスト(?)の匂いがした。

推しに会ったことはない。もちろん匂いを嗅いだこともない。

でも推しの優しくてしっかりした性格や話し方、見た目、全てが、この柔軟剤の匂いっぽかった。

袖を通し体に柔らかな推しを纏って布団に入ると、推しに包まれて寝ているようだった。

少なくとも一人ではなかった。そこにあったのは誰かの匂いだった。

 

さっきまで配信で話していた推しと寝ることを想像するのは容易だった。

髪を撫でられ頬に大きなリップ音でキスを落としていたずらに微笑む。

おやすみと微笑む推しに自然と私の表情も緩んでくる。

今日は夜が終わり朝を迎えられそうだ。

 

 

放浪の末、隠しコマンドを発見した

なぜだろう。

駄目になってしまったのは。

嫌いになってしまったのは。

充たされなくなってしまったのは。

 

本物ではないから?

過去の過ちのツケ?

私のせい?

あなたのせい?

 

 

 

中学3年の夏、それは空が一番近くに感じた季節だった。手の届かない「大人」「表舞台に立つ人」「男性」というものを至近距離に感じた。神聖なものが本当は神聖ではないと悟らされた時期だった。

 

それからネジが外れ、私は男性には心がないのだと思い込むようになった。私のことなんて穴としか見えてないのだと。手に届けば誰でもいい、私は身体しかない存在なのだと。

実際に心が存在しない人はたくさんいた。普段は心を持っていても、私に対しては心を持たない人も見受けられた。絶望してもう男性と関わらないと心に誓った時期もあった。

 

しかし、希望が捨てきれなかった私は、名前のない「コラム」と言う名の他人から「心を持つ男性もいる」ということを聞いて、片っ端から男性を試そうとした時期もあった。

期待して、試しては絶望し、また期待して、試しては絶望を繰り返した。

 

 

そのうち、私は期待を裏切らなさそうな、優しそうな人を好くようになった。優しそうな人たちは、私と深く関わろうとしなかったり、保守的だったり、価値観が合わなかったりして、なかなか長くは続かなかった。

 

大学1年で出来た彼氏は唯一「合う」という感覚を覚えた。その頃になぜ充たされると感じれたのかを言語化しておけばよかった。許せたのはなぜか。許されていると感じれたのはなぜか。

彼は自分勝手だったはずなのにちっとも自分勝手に感じなかった。

きっと、彼は本当に、「私によって喜ばせられてる彼の姿を見て喜ぶ私の姿」に喜びを感じていたのだろうと思う。

それが私の唯一の喜びで、彼にあって他の人にはないものだと思う。

 

私に喜ばせられる人も私の喜ぶ姿を喜んでくれる人はいた。でも、自分の喜ぶ姿に喜ぶ私のことを喜んでくれる人はいなかった。

相手が喜ぶ。私が喜ぶ。そこに繋がりはなかった。お互いが同時に喜ぶことを目標付けられることもあった。

しかし、それは違かったのだとおもう。

私の充実には時差があり、プロセスやコンボによって発動される必殺技のようなものだったのだ。

AボタンでもBボタンでも発動される訳がなかったのはこのせいだったのだ。

 

私の人生を順を追って整理したブログを書きながら発見した隠しコマンド。

 

コマンドを押してくれる相手はいるのだろうか。

 

これはもう私だけの話ではない上に、相手が努力して解決できる話でもない。それこそ、「合う」相手を見つけるしかない。

 

でも、コマンドが分かっていれば探しようがある。それだけでも大きな一歩になった。

今回の話の元になった経験も、このブログも、私に良い刺激を与えてくれたとおもう。

 

 

 

 

あこがれのくやしさ

すごく気の合う素敵な人と出会った。

その人は私が努力して変化してきた私の姿を

自然にこなしてしまう人だった。

 

一言で表すと「空っぽ」だった

アルミのような薄くて響く何も入ってないカラカラな缶みたいな人だった。

 

私はずっしり詰まった理屈という泥や暗いジメジメしたものを少しずつ外へ捨て去っていって今少しずつ内容量が減ってきている。

このブログを書いていることもその名残である。カラカラな人は抱いた感情をブログで発散するようなひねくれかたをしない。たぶん。

 

そんな自分を悪いとは思っていないが、心を無音にできる人や自由に振る舞える人に憧れや尊敬がある。

それは年齢の差もあって、レベル21の私がレベル31の人と戦うのは限界がある。

悔しいが社会人という経験値は私には補えない。社会人1年目の人でも何年働いた人にも未経験の私には太刀打ちできない。

そのうち経験することだし、きっとその人と同じ年齢になったときには私はきっと違う性格の人間になっていると思う。

でも、戦っているのは今で、私はまだ不器用でその人は器用だった。

 

この人と関わったらどうなるのだろうか。

私も空っぽになれるのだろうか。

中身が詰まった重い自分を嫌ってしまうのだろうか。

その人の空っぽさに自分がついていけなくなってしまうのだろうか。

 

予測ができないことだから手を伸ばすことを躊躇ってしまう。

空っぽならきっとなにも考えずに手を掴んで自分からブンブン振り回して振り回されて行くんだろうと思う。

それが出来ないのは私の安定志向のつまらない部分。

みんなそうとか周りはもっと出来ないとかが励ましにならないくらい、ビビる自分が悔しい。

痛い目に遇わないとわからない感覚も経験もあるはずなのに、痛くない方を選んでしまう。

 

ハードルの前でその都度ハードルの高さを計ってから飛ぶのは、どんだけ急いで計っても、何も考えずハードルを飛び進めていくよりも時間がかかる。

 

飛ばない人よりはましだと自分を励ます。

計測速度を早めることに尽力するか、測らずに飛び込む勇気をもつかの二択。

決めきれずどちらも疎かになってしまっている。

 

空っぽになりたいなりたくない。

バカになりたいなりたくない。

大人になりたいなりたくない。

上手くなりたいなりたくない。

 

どっちにもなれない私は何者にもなれないまま浮遊。

冬。

 

ダニエルを見て

映画を見てきた。

すごく印象的なシーン(オブラートに包んだ)

がたくさんあった。

私が恐怖を禁じる映画を今まで見た経験がなく、耐性がなかったこともあり、圧倒された。

 

最後になるにつれて結末は見えていた。

スプラッシュマウンテンの最前列に乗ってるみたいに、

これから進む方向にどんなものがあるのか分かる感覚。

それまでの落ち方から考えて最後におもっきり落ちることを予感する感覚。…絶望。

 

主人公は怖がりながらも

たくさんの恐怖に打ち勝っていく。

私なら絶対にできないだろうなと

確信できるほどの恐怖が何度も何度も起こり

それらを乗り越えた。

 

孤独が産み出した化け物は

大きな恐怖となって返ってくる。

自分が産み出したはずなのに

産み出された化け物は急スピードで成長し

自分を越えるほどの大きさに膨れ上がる

 

その化け物から逃げることはできない。

絶対に退治しなければならない。

 

孤独から逃げてしまうほど弱い自分が、

悪に豹変してしまった自分の正義だったものを成敗ことができるだろうか。いろんな感情が渦巻くだろう。怖いとわかっている地獄に足を踏み入れる自信がない。大好きな友達に敵意を向けるのは相当つらいだろう。

 

「身を滅ぼす」

 

この言葉が表現として今の私が感じたこの映画の要約だ。

 

孤独に犯されてしまう前に救われたい。

孤独に犯されてしまう前に救いたい。

 

みんなを、世界を救いたい。

目を背けるほど怖かったが

昇華し、良い経験になった。

 

頑張らなきゃ。

 

 

2020年11月19日の下書き

元彼と将来の愛を誓いあった場所が工事によって修繕され、跡形なく変わってしまった。

無造作な階段やなんのためでもない土の上に落ち葉が落ちた広場、小汚ない池、小汚ないベンチ。

全てが想い出だった。思い出が全てだった。綺麗に変わってしまったら、なんの価値もなくなってしまう。

それが悲しくて少し嬉しい。思い出さなければきっと記憶は消えてしまう。それでいい。

思い返さないくらい今を生きることのほうがよっぽど幸せだと思う。想い出が思い出されて、エゴサして彼のアカウント開いてツイートや写真の撮り方から精神状況や女性関係、仕事関係を勘繰り、もう彼を好きでもないのに、自分には全く関係ない情報をあれこれ想像して一喜一憂しなくてすむ。

しらんが。

 

 

昨日塾で苦手と思ってる子から分かりやすいと褒めてもらえた。その子は前の授業で私が言ったことを覚えていてくれたし、宿題も自分の身に付くまでしっかりやってきてくれていた。その前の授業の子がわたしの話を一切覚えていなかった子で、言っても意味ないなぁと豆腐に釘を打っていたため、すごく嬉しかった。初めて分かりやすいって言ってもらえたし、伝わっていることが分かって無駄ではなかったと思えた。

 

 

今日は小学生姉弟を教えた。姉弟を二人の先生がシフト曜日ごとに教える。前担当の先生が弟に厳しいらしく、親も姉も弟のことを酷く扱う。集中力が続かないことを先生は親へ密告し、姉も加勢する。しかし、私は先生は生徒の良いところを引き伸ばすためにいるべきだと思う。苦手を克服するためであったとしても、その当事者の心の不健康を伴うものではあっていけないと思う。私は姉弟どちらも楽しく勉強してほしいし、自信をつけてほしい。

そのためにコツコツと褒め伸ばし挑戦改善を実践しているから、はっきり言ってその先生が嫌いだ。元々知り合いで一個下で同じ小中高校でその全期間で好きではなかったということもあるが、生理的なものなど個人的感情を差し引いても嫌いだ。迷惑だ。人生がかかっているんだ。お前ごときに怒られた経験が周りを巻き込み深く傷として刻み込まれてしまうんだ。軽々しくできないやらないと言わないでほしい。やる気を引き出すことができないお前がいけないんだ。ひとのせいにするな。わたしのことはいいんだ。一旦棚にあげる。

 

 

次の時間、幼稚園生が塾に来た。子供を相手した経験が少な過ぎてどうしていいかわからない。親にベッタリで泣く彼女の心を開くことはあと一歩出来なかったが、最後ハイタッチして送り出せた。少し打ち解けられた気がして嬉しかった。次の週にさっき出てきた嫌いな先生がその子を担当するらしい。うまくいかなければいいのにと思ってしまう自分がとても嫌だ。

 

お酒を飲んだ。泣きたい。泣く理由も頑張ったこともなにもなくて、マカロニえんぴつのヤングアダルトを聞いて片想いのお兄さんが好きだといってたなぁと思い出して純粋に音楽が聞けない自分とその音楽自体が嫌になった。

 

こんなことを今までは話のネタにしてその辺にいるテキトーな男に泣きついて発散させていたが、今はそれもなくブログという誰が見てるかわからない、なんなら誰も見てない世界に入り込んで吐き出している。

それがとても気持ちいい。清々しいが少し淋しい気分だ。