知ってたけど忘れてた息の仕方

久しぶりに引っ越し君に会った。

淡々と強く生きている彼はきっと同い年ではないと思うくらいにしっかりしていた。

問いかけると100倍でほしい答えをくれる。彼はなんでも知っている。幸せの見つけ方も人との関わり方も自分のコントロールの仕方も私が気付けない私の特徴も普段気にしない言葉の魅力も。

幸せのハードルを下げることで幸せになれる。そんなのは分かっているもんと納得しきれない顔で彼を見ると彼は続けた。電気代が払ってなくて電気が止まって、払った後にブレーカーを上げて電気がついたときに、やったぁ!って声を出して喜んだ。と。その他にも、

自分が無能な人間だと分かっているから、忘れ物をしたと思って探したらあったときにラッキーって思うし、家でなくしたものが見つかったとき嬉しいって思う。

人間なんてこの机よりも価値のないものなんだ。机を叩いたら音が出るけど人間はちょっと頑張らないと音がでない。

価値なんかあると価値を生まなきゃいけなくなるんだから価値があっちゃ困る。

最悪の状態を考えるから、今の状態を喜べる。

自分はちょろいから自分で簡単に操縦できるくらいがちょうどいい。

と、私の人生を導く名言を考える間もなくツラツラと喋った。

負の感情もパワーに変えると言ったから、パワーがない負もあるって返したら負を足せばいいと飄々と言った時はその手があったかと驚いた。

溺れて水面をバシャバシャともがいて浮き沈みしながら息をしてる私に、一旦落ち着いてみると実は足がつく場所かもしれないとか、動かず仰向けになる方が顔に水が入らずに息ができるとかを思い起こさせてくれた。

 

落ち着くと落ち込むの差を改めて感じた。落ち着いてきたねって元気がなくなってきたみたいで嫌だったけど、落ち着くって安定して元気を供給している自立した人のことなのではないかと思った。

あの時に気付けていたら何かが変わっていたのだろうか。いや、あのときはまだ落ち着ききれてなかったのだろう。そして今も少しずつ落ち着きを得ているのだろう。

落ち込んだら落ち着こう。体はハードでしかない。操縦席にいる私がソフトなんだ。ソフトの私がハードの私を飼い慣らすんだ。