卒業式には行かない

今日大学には行かなかった。

 

行っても良い思い出にはならなかったと思う。

一人で埃みたいに居場所なく過ごすだけだろうから。

でも、一人で都内の不動産から新居まで歩く道がすごく寂しくて、桜が綺麗で、今頃卒業式やってんのかと思うと悲しい気持ちになった。

先輩と主に仲良くしてた私に同級生しかいないからきっと卒業式は苦痛でしかない。時間も学部で別々だから同じ学部の人にしか会えないし。

 

でも、今までの楽しい時間はなくならない。だから絶対に私は負けない。悲しく思ってるのは気配のせいだ。

 

4年間にたくさん成長した。

出来るようになったことはたくさんある。

これからできるようになることもたくさんある。

目に見えなくても確かにある。

だから、あの人がすごくても、その人みたいになれなくても、対等と思人に圧倒的に敵わなくても、目に見えるものを持つ人にも目に見えないものを持つ人にも私は負けない。大丈夫。

 

知らん奴に向いてないと言われたものだって関係ない。かすり傷はついてるけど自分で治していく。

 

4年でこんなに強くなれたよ。たくさん成長したんだよ。あれからたくさんいろんなことあったよ。あのときは未熟すぎてごめんね。おかげさまで今があるよ。

これからもっとあのときの優しさに気付いて、救われて、素敵な人になっていくよ。

 

卒業ありがとう。

歩んできた道と類似性

私はわたしと彼女をどうすべきだったのか。

まだ答えの出ない問いに苦しんでいる。

 

毎日のように一緒に過ごした学生時代、そんなこと思ったことなかった。

なのに最近彼女の言動に悩まされてばかりだ。

学生時代に交差した線が別々の方向に違う速さでまっすぐに延びていくことで離れていく線の先。

 

自分が線を伸ばしてできるようになったアレコレを相手がしないことが許せなくてイライラしてしまう。

 

できることが増えることは良いことなはずなのに、相手に対して狭くなっていく心に自己嫌悪。

 

最近は、できることが少ないと私が判断している「小学生」と関わることで狭くなる心を克服できたと思ってた。

自分軸で見ないようにしていたつもりだった。

現に先輩や後輩など、多少上下がある関係では許容できる場面が増えたと感じている。

 

しかし、友達という対等な立場になってしまうと、どうしても許せない。

私ができるようになったことたちはどれも難しいことではない。一つ一つ、自分が傷ついて環境に適応していっただけのことである。

それを「できないから」という理由でやろうともせず享受することがどうしても許せない。

 

私と同じくらいか、それ以上の恵まれた環境で過ごしている人が、望んだことを「できない」はずはないと思っている。

でも、相手ができないから、私がやる。そうすると、相手はできないことをできないままで許されてしまう。自分は許されなかったのに。どうしてもそれが羨ましくて、妬んでしまう。私も私みたいにやってくれる人が欲しかった。と。

 

じゃあやらなきゃいいじゃん。とか、合わなきゃいいじゃん。とか、そういうことではない。

私はこの事実に腹を立てているのではなく、気持ちを上手く処理できない自分に腹を立てているのだ。

 

人と何かをしようとすると、熱量が違うことなんて大いにある。

自分より冷ための人と何かをする度に腹を立てていたらキリがない。

しかし、不貞腐れて空いての熱量を下回ることで相手になにも求めないという方法は、相手よりも卑屈かつ共同作業の質に大きく影響を及ぼしてしまうため、自分にも被害を被る。

できないからやらない人とできるけどやらない人では印象が全く違うのだ。

 

できない側にもやらない正義みたいなものがある。口だけ羨ましいと言っておくことで褒めたつもりでいるとか、相手にやらせることで自分が楽したいとか、やったら負けだと思ってるとか、今までやったことないことはやりたくないとか。

気持ちはわかる。それでどうにかなるなら私もやりたくない。

そんな人生で楽しいなら私もやりたくない。

 

冷めた波のない人生で楽しめるなら私も何もかもやりたくない。

でも、私は楽しめない。

 

お前が熱い方が好きなら勝手に熱くなってろよ。冷たい方が好きな奴に強要すんなよ。

ごもっとも。

分かってる。好きでやってるだけ。好きで色々できるようになりたいだけ。

 

でも、色々できるようになったのは、あなたに搾取されるためではないのよ。

ありがとうという言葉も時には鋭利な刃物になることがあるの。相手が私の善意を受け取ったという証拠として実感してしまうから辛くなってしまうことだってあるの。

万能だとおもってるんでしょうけど。

 

 

 

でも、真逆に見えるものって案外似ているものだったりするなんて言うから、きっと私もそんな自分にコンプレックスを抱きながらも同じ事をしてしまっているのよね。

許せないのはあの子じゃなくて私のことなのよね。

 

こんな醜い心をどうすればいいんでしょうね。答えはどうやったら見れるのでしょう。

答えつきのドリルの答えを見ながら問題を解くことばかりしてきた私は答えを見ながらでないと動けない。

 

マイナスな私はゼロのあんたよりもダメな人間だ。

 

 

 

たった数日の思い出に振り回されるから

今まで生きてきた8300日のうち、

楽しかった日は何日だろう

辛かった日は何日だろう

思い出に残る日は何日だろう

人と会ったのは何日だろう

 

最近あったあの日のことは数年後に

思い出として持ち越せるのだろうか。

それとももう少ししたら忘れてしまうのだろうか。

濃いことたくさんあっても

薄れずに残っていてほしいな。

 

もしも忘れてしまったら

このブログを読み返して

思い返せるといいな。気持ちも全部。

 

たった数日のキラキラした思い出を

たくさんキラキラしてたように錯覚させて

思い出したという思い出すらキラキラさせていたい。

 

無駄じゃない

原因不明の泣くほど苦しかった思い出も

積もり積もって泣けなくなるほど辛かった思い出も

片思いで心を掻き乱された思い出も

都合よく使われて心が空っぽになった思い出も

大切にしてた人から裏切られた思い出も

顔から火が出るほど恥ずかしかった思い出も

やらかして怒られて凹んだ思い出も

理不尽に怒られて凹んだ思い出も

泣くほど悔しかった思い出も

努力したことが報われなかった思い出も

 

全部全部無駄じゃなかった。

無駄じゃないと思いたい。

 

京都で心を撫でられたとき、「嗚呼この瞬間のために今までがあったのだな」と思ったあの感覚は、これからもきっと何回も出会うとおもう。

 

 

 

統計的に私は、毎年4/23くらいから病み期に突入する。

それはもう、どん底で、本気で戦わないとなかなか敵わない。

 

人には解決方法を提案し、実行しないと苛立ちを覚える癖に、自分は解決法がわかっているのに実行してないことが多い。

 

今までの苦痛を無駄にしないためには学びを行動に移さなければならない。

傷だらけになって見つけた答えを見つけたまま無駄にしてるのは自分だ。でも、行動に移すのは体力がいるし、労力だ。そのなかで動けるかが分かれ目になる。

 

分かってるのになぁ。

自分に大丈夫って言ってあげたい。

自分を報いてあげたい。

どこまでも乾いた喉を潤してあげたい。

浮いてフルフルと震えてる心を固定してあげたい。

強くなりたい。

 

もう、

私が好きになれるほど

ちゃんとした人間にならなくても

わたしのことを愛してあげたい。

 

全てが今輝いてるよ

多謝

私はもうすぐ卒業する。

 

思い返しても思い返さなくても、大学生活、とてもとても濃いものだった。

いろんな人と関わることができたし、大切に想い思われる人もできた。

みんなが経験しているような日常も、私だけが味わった体験もあった。

 

でも、一番は二人の元彼の存在が大きい。

時間的にも二人と過ごすことが多かったし、ありえないほど人として素晴らしかった。

二人とも最初は本命じゃなくて、たくさん傷つけてしまったのに、心の底から私のことを愛してくれた。

 

あれからまだ彼氏ができていないのは、二人よりも素敵な人にまだ出会えていないのと、二人のように私を許し愛してくれる人がいないからだとおもう。

 

彼らとの思い出にはハイライトになる出来事が多過ぎる。きっと、死の間際、私の走馬灯が長すぎて、見ているうちに1つの人生が始まって終わっているとおもう。

それほど目まぐるしくて、青春の日々を謳歌していたと胸を張って言える。

きっと、私のことを私よりもはるかに分かってくれる彼らだから「ありがとう」って直接言わなくても伝わってるとおもう。

連絡がつく方の元彼には後で直接お礼を言っておこうかな。

 

他にもたくさんの人にお礼を言わなくちゃなぁ。言いたいな。そう思い返せる人がたくさんいることが幸せだなぁ。なんて報告したいイベントがある度に何回もしんみり思う。

 

あと、毎回のようにこのブログを読んでくれてる、一回だけカレーを一緒に食べてカラオケに行った友達にも、すごくすごく感謝してる。あれから連絡は取っていなかったけど、大森靖子アイドルソングは未だに聴いてるし、彼の書く文章は魅力的でブログが更新されるのをいつも楽しみにしてるし、サークルのチラシで彼の名前を見るとすごいなぁと尊敬してたし、彼が自分をさらけ出す姿を見て醜い自分のままで頑張りたいと励まされたし、負けてられないなぁ…と、何を戦っているわけでもないけどぼんやり意識していた。

たしか、このブログを始めたキッカケも彼の影響だったとおもう。

 

彼は私を覚えてないだろうし、何も気づいてないだろうし、何とも思っていないだろうけど。でも、それくらいの距離感でいられることがすごく幸せだった。ネットという意図せずとも勝手に繋がってしまう世界のなかで、こっそり私だけ意図して繋がっている感覚とかが。

彼がこの先ブログを更新してくれるかわからないけど、歳を重ねた彼から見える世界はきっとすごく面白いとおもうから期待している。

私を楽しませてくれて、刺激してくれて、励ましてくれて本当にありがとう。

 

 

Twitterでよく呟いてる関わりのない先輩にも、キャンパスでなぜかめちゃくちゃよく遭遇する名前のわからない女性にも、その人がいるということが確認できるだけで安心感がある。その人を見るとここはいつもの場所なのだと、勝手に自分の居場所を実感できた。

 

そんな一人一人に恩返しをしていくことは出来ないから、まずは支えてくれた色んな人のことを忘れないでいきたい。

そして、その人たちが生きる世界を少しでも守ることが出来るように、私は強くなりちい。

 

1人ひとりの微笑みに救われ、私は豊かになりました。

美しく優しい世界を本当にありがとう。

 

これからも

私とあなたとその周りにいる人が

健やかでいられますように。

 

 

(私はまだ続けるよ。)

 

不感の湯

家庭用の浴槽に7割くらいで張られた35℃のお湯。

 

恐ろしいほど感覚を感じないぬるま湯に浸かる。

漬かっていないところに風が当たり寒くなり、肩まで浸かる。

漬かると外に出れなくなる。

 

熱ければ芯まで温かくなり外気の冷たさも気にならないし、長く浸かると逆上せてしまうから簡単に上がれるのに。

 

温かさを感じないくらい当たり前になってしまっているから、上がった瞬間に寒さで凍えてしまう。

それは長く漬かれば漬かるほど上がれなくなる。

 

ありがたさが感じられなくなって、熱いお湯に浸かりたくなる日が来ることも、

熱くて逆上せたときに、35℃のお湯の良さに気付いてまた戻りたいと願う日が来ることも

その時にはもうないことも

 

フラグが立っているにも関わらずそのままフラグを回収するために何も考えずに進みかけている状態だということも

 

分かってる。

今はそれでもいいや。と思ってる。

 

 

私は絶対悪くない絶対

私にとっては本気の火遊び。

彼はキャンプファイアー。

 

そんな生ぬるい場所で見てるだけじゃ何も感じないのよ。

もっと熱く、火傷するくらい燃えなきゃ。

ビビって火を遠くから見て暖まっているような貴方には分からないわよね。

大火の中にいる私のことなんて。

 

火の周りにすらいない人たちと群れてたら自分が火遊びしてる気分になるわよね。

自分が楽しむだけで楽しめるなら貴方はずっと誰かの火を使って暖まってればいいのよ。

私はそんなの御免だわ。

 

もっと熱く燃え上がりたいの。

だから貴方と本気で楽しみたかったの。

 

貴方は私を恐れていたから、私は何も言えなくなった。

何も言わない私に彼は憤慨していたけど、

私の首を絞めたのは貴方だったのよ。

そんなことすら首が絞まってて言うことが出来なかったけど。

 

私は彼に私があげたものが欲しかった。私が丁寧に心を込めてあげたプレゼントは私が欲しいものだった。

彼なら少し考えたら分かったはずだし、きっと私が欲しいものを分かっていた。でも、私にそれを与えることはしなかった。

 

私は彼に少し重い話をした。

酷かった昔の人の話。

彼は楽しみたいだけなのにそんな話をされたくなかったと早口で捲し立てるように怒った。

適当にその場を乗りきった。今考えるとそんなことを言う彼はとてもとても幼かった。

 

そのあと普通の会話に戻れたのはせめてもの救いだった。

 

彼のバイトの時間になり一緒に家を出て別々の方向になったとき、彼はバイトで先に帰る人にかけるかのように「お疲れっ」と言った。咄嗟に私も「おつかれ!!」と明るく手を振ったけど、何に疲れてるんだろうと思った。「また」がないけど「じゃあね」でもないから彼なりに考えてこの言葉を選んだのがひしひしと伝わってきた。

 

私は別にそれならそれでも構わないわ。

ゲームなんて世の中には溢れるほどにあるのよ。

使い捨てのゲームだってあってもいい。

楽しくないなら捨てればいい。

欲しかったらまた買えばいい。

 

でも、あの時、有無を言わせない空気を作っておきながら何か言えとか、正直に言えとか言ってきて、私が言えなくて怒ってきたこと、絶対私は悪くないとおもう。絶対。