刺さるのはいつだって脇に落ちてる一言

「井戸水のように汲んでも失くならないような」ようななんだったかは忘れた。でも、なんかカウンセラーの先生が言ったこの言葉がすごく突き刺さった。

今、私は産業カウンセラーの資格を取るために対面での面談練習と講義動画観賞をしている。

私は大学1年の頃まで言葉はまとまってなくても、たくさん発声すればするほどたくさんのことを伝えられ、コミュニケーションできると思っていた。

2人目の元カレがまだ彼氏の友達だった頃、寡黙な彼が私に言った「自分の話をするときはなるべく10字でまとめるようにしてる」という考え方を聞いてから、私は話をなんでも話せばいいって訳じゃないと考えるようになった。

私は元々大きめな表情の起伏を素直さや可愛げとして評価してもらえることが多かった。だから言葉よりも身振りや手振り、表情の元気さで精一杯表現することに力を注ぐようになった。

人と話す時は間が空かないように、気まずくならないように、会話のネタをたくさん作った。自分の武勇伝として話せるネタをたくさん作って、距離感ある人と話すライトな話も仲良くなりやすい爆弾話も短時間で話せる話も時間を稼げる長尺の話も何個ずつか出来るようになった。それだけでは自分の話ばかりになってしまうから、質問のネタもメモにたくさん書き起こして、直球も変化球もその相手の人間性が見えるような質問もストックした。

ストックと言ってるだけあって、それは全て偽物ではないけど創作物。ペットボトルの水のように使いきったらなくなってしまう有限なもの。

ぼやっと今思ったことを今発言することが当たり前にできなかった自分が、不自由に思って講じた対策。瞬発力から逃げた結果でもある。

ここまで対策したらまぁまぁな大作だと自分でも達成感や努力の自信はあるが、逃げの大作なのは間違いない。

創作された話は聞き手の有無を問わない。落語のようにあまり脱線することなく自分の敷いた話のレールの上を時間の経過を主な目的として走っていく。

そこにはAIのような哀しさや有機物感を感じる。

自分が定義した仲良くない人や話しにくい人に対して、強化アクリルの分厚くけして相手から破ることは出来ない壁を作っている。

逆に、ある程度この人には話せると思うと壁がなくなる。でも基本的に私は誰からも質問はされなくて、ずっと一人で喋ってる。

自分ひとりの視点からの喋りをするにあたってネタは尽かせないようにしてはいるものの、無限ではない。ネタを作りにいかなきゃ、何か考えさせられるトピックに触れなきゃと少しは体なり頭なりが動かないと人と話せない。

だから、井戸水のように汲んでも失くならないものが私にもほしかった。

作り物じゃない失くならない私を愛されたい。透き通った気持ちを沸き上げ溢れ続けたい。汲んでも尽きないほど好きな気持ちで満たしたい。