活きる彼らと生きていない私

社員旅行で水族館に行った。

好きな人がいなかったから輝いて見えなかったのもあるだろうけど、今回は水族館の楽しみかたが分からなかった。

亀や魚やクラゲなどを見てどう思うこともなく、ただ促されるように歩行する。

 

水族館をググって水族館側の想いを読んでからシャチのショーを見てから、非日常と生きることがほんの少しだけ分かった気がした。

 

 

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自分は今まで寛容な人間だと思ってた。

友達と呼べる人のほとんどは私にだいぶな、失態をしてきていたし、仲良くなる人の趣味嗜好は個性的だったけど、偏見なく対等に関わってきてた。

 

でもそれは寛容ではなく、関心がないだけだった。「知りたい」が少ない私は、個性を否定されてきた人たちにとっては都合がよかった。驚きもせず、根掘り葉掘りもせず、与えられた情報をそのままインストールする。彼らにはそこに「生きる」があるのに。

 

生きるに美しいと思ったことがないし、君が生きることは私が生きると同じことだと思ってるから、私もあなたも魚も動物も生きているただそれだけだと。毎日会う人なんてそういなくて、毎日のように出会ったことない人と会うのが日常。だから、普段会わない魚や動物でも、全く会ったことない訳でもないし、(小学校とかで水族館とか行ってたから)非日常には感じなくて、新鮮に面白く感じるなどの感想がない。

 

そんな中で君らが生きることがどれほど尊くて儚いことかを心の底から想い馳せることが出来たなら、興味感心も少しは持てるだろうし、凄いとか可愛いとか気持ち良さそうとか感想も増えていくのかもしれない。

いや、でも、まずは自分に余裕がなきゃいけないかな。私が生きるということをしっかりまっとうできてない。

心をズタボロに引き裂かれて、死にたいと思う日もあるけど、ひき止めてくれる人や少なからず楽しいと思えることがあるからとりあえず今日は死ぬのをやめておく…みたいな、活きていない生きるをしている状態じゃ、私も辛い中生きてるのに…とか、他の動物の辛さに想いを馳せることなんてできない。かといってどの動物も生きることに楽なんてないだろうし、明日から生まれ変わることもできないから、いいなぁなりたいなぁとも思わない。

 

園のサイトを読んでから見たシャチのショーは、シャチが飛べることを当たり前と思わなくなったし、観客席4階まで水を跳ねさせるヒレや体の威力は単純にすごいと思えた。スタッフさんの褒め方がシャチによって違っていたのは、動物には心までもが伝わってしまうからこそ、ちゃんと時間をかけて誠実に向き合っているのだろうと思った。きっと、スタッフさんもシャチも活きているんだろうなあとおもった。

 

そのあとまた展示をぐるぐる回る。ガラスに張り付けば自分も水のなかにいるような感覚になると聞いたことがあるなぁと思って張り付いてみたら眼鏡のような歪みや屈折でクラっとくることもあったけど、水のなかにいるという感覚を体感できて、少なからず非日常にトリップできた。

非日常だからといって何かを思えた訳ではなかったけど、分厚いガラスの外にいるのと中にいるのの違いは少しだけ分かったような気がした。

 

シャチのスタッフさんを見て思った。嘘でも元気ぶって作り笑顔するのはしんどいときもあるけど、笑顔を作ってるときの自分はそれでもやっぱり笑ってて。笑顔をつくることすらできなくなって、笑いかたが分からなくなるよりは、嘘でも笑える方がよっぽどいい。

調子に乗りたい。波はたくさん来てるはずなのに自分のボードに乗りやすい波以外を見過ごしてしまう大馬鹿者だけど、多少無理やりでも私が波に乗れたらきっと、水族館の君らのことも違う目で見れるようになるのだろう。