ここ一年でよく話が出てきている大阪の芸人見習いの人に今年をどう過ごす予定なのかという質問をもらえた。
考え応えのある質問を私に投げ掛けてくれる人はあまりいないし、彼から質問を投げ掛けてくれるのもとても久々だったから嬉しかった。
LINE用に短くまとめてしまう前に、一度しっかり広げておきたいと思ってここに綴る。
去年は苦しみながらひたすら成長するためにもがいてきた。
あてもなく、劣悪な状況でも、とりあえず伸びていく様はまるで豆苗。
今年は、楽しく生きるとは何かを模索する一年にしようかと思っている。
楽しいとは達成感なのか、喜怒哀楽の共有なのか、怠惰なのか、苦しみなのか、評価なのか、お金なのか、仕事なのか、プライベートなのか、、、。
瞳の色彩が豊かになることをしていたいし、見つけていきたいなと思う。
あ、これが答えなのかなぁ。
極めたいとか極めたくないとかはなくて。。
前の仕事は色彩が薄れていく仕事だった。世界は汚れて見えたし、自分も汚れて見えたし、目の前はボヤけてて、色がどんどん消えていった。
それは取れなくなっていったのももちろん要素として大きくあって、取れたら嬉しいし何もかも跳ね返す強い力があると思う。私の力がなかっただけ。それはそう。
でも、それでも弱くなった時でも信じられるほどの物じゃなかったし、信じさせてくれる仲間はいなかった。
では、私の瞳の色彩はどうしたら豊かになるのだろう。
仮説、たくさん体験する
仮説、人とたくさん話す
仮説、成功をたくさんする
仮説、人にたくさん褒められる
仮説、たくさん遊ぶ
仮説、自信をつける
仮説、、、、。
たぶん、いつを楽しむかを悩むよりは具体的に生きていけそうな気がする。
では、なぜ瞳の色彩を豊かにする必要があるのか。
と、聞かれると難しいけど、どれだけ楽しいことだとしても、感度が全くなければ楽しいと感じることさえできないし、どんなに強く叩いても打っても届かなくなってしまう。
誰でも見えるものでさえ見えなくなるし、私にしか見えないものも、見たいものも、見たくないものも、見なきゃいけないところも、ちゃんと見ておきたいし、見なくていいものを見ないという選択が出来るように、色彩は失っちゃいけないし、鮮やかであってほしい。
悲しい涙の色だったとしても。