囚われないに囚われる

昔好きだったもの。

嫌いになったのは一瞬だったけど、好きになっていったのはそれなりに理由があったからで、そんな当たり前なことをずっと忘れてた。

なんなら嫌いになった理由だって今ではよく分からない。

でも、別に今また熱を帯びている状態とかではない。ただ、その嫌っている状態は本当に意味があるのか。

 

思い返してみると、バンドでドラムの人を好きって言って、周りと違う自分をアピールしたり、フロントマンを素直にカッコいいと言えなかったりして相当に歪んでいた私を矯正しようとして、フロントマンを好きになっていたこともあった。逆張りしてた自分を見つめ直し、命題も逆も裏も対偶もなにもかも全てを好きになっていいと言い聞かせたつもりなのに、いつの間にか囚われちゃいけないということに囚われてしまって好きなものが鮮明に見えなくなってた。

 

一度好きになったものって、私にとって魅力が詰まった素敵なもののはずで、そんな簡単に否定できるはずがないもの。

バンドマンは、ドラムもフロントマンも違った良さがあって、どちらもめちゃくちゃカッコ良くて、変な見方をしてもしなくてもそこに素直な魅力はたくさん詰まってる。

時間が経って、あの頃負った好きなものが傷つけられた悲しい気持ちが癒えてきたら、もうそれを嫌わなくてもいい。

見られ方なんて気にしなくていいし、気にしてしまうなら気にした中で最大限に楽しめばいい。

あの頃の私がダサいとかダメとかじゃないし、あの頃楽しかった気持ちに戻っちゃいけないわけではない。なんなら、自分の原点の楽しい好きが詰まってて、時間を経て宝石になっていることだってある。

 

考え込みすぎるなとか、気を遣いすぎるなとか、気楽にいけとか、楽をしろとか、今までそう聞こえて抑え込んでいた思い。誰かの優しさではあったけど、きっと私に向けて言った言葉ではない。したくない人はしなくていいし、したければしてもいいし、してあげたいと思う人だけしてもいいし、それをし続けなくてもいいみたいな。

 

疲労も快適にしてくれるような環境は探せばあるし、私のその環境は表現者に近い可能性があるということを見つけてくれた人は、芸人が複数人が集まっていた公民館みたいなところのライブで、この中で誰とスキーに行きたいか考えたときに、一番来てくれなさそうと思ったけど、一番心地よく過ごせそうだと思った人だった。